無駄を嗜む 喫煙所は優れたコミュニケーションの場 「社会の潤滑油」としての効能はもっと評価されてもいいはず

コロナ禍の影響で2年前、37歳でたばこを吸うようになり、喫煙所でのコミュニケーションというものを人生で初めて体験しました。
仕事先の放送局にある喫煙所には、所属も立場も異なるさまざまな人が集まります。そこでは知らない人同士が「火を貸してくれませんか」などと気安く話すことが可能。また、顔見知りとの「最近どう?」という会話が思わぬ仕事につながることも。予想外にあたたかく居心地がいい世界が広がっていることに驚きました。
考えてみれば、一般的に酒の席でケンカが起きるのはさほど珍しいことではありませんが、喫煙所でのケンカはとんと聞いたことがありません。「社会の潤滑油」としての効能はもっと評価されてもいいはず。
日本では、電車を待つにしろ、人気店の行列に並ぶにしろ、見知らぬ者同士の間で会話が弾むことはまずありません。誰かが血を流して倒れているような場合でない限り、そもそも他人に声をかけないでしょう。喫煙所は日本において例外的に、知らない人と交流しやすい一種のコミュニケーションハブ(結節点)なのです。
そう考えると、オフィスに数畳ほどの喫煙所を設けることは有益なはず。しかし、むしろ最近は企業が社員に対して就業中に禁煙を課すケースが増えてきました。社員の健康を守ると同時に、生産性を上げるのが目的のようです。
しかし、日本の実質GDPは四半世紀もの間、ほとんど変わっていません。10年以上前から続いており、その厳しさが漸増している社会的な禁煙・嫌煙の趨勢(すうせい)が、生産性の向上に寄与しているとはいいがたい。一方、外国に目を向けると、喫煙率が下がっているアメリカやヨーロッパ諸国も、喫煙率が高い中国やパキスタンも、経済成長を続けています。
つまり喫煙と生産性は無関係。禁止すれば生産性が上がる、という考えはナンセンスです。また、強制的な禁煙が社員の長期的な精神衛生に資するとも思えません。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といいますが、僕にとって精神の健康と肉体の健康は別物。もちろん受動喫煙や肺疾患を持つ人に配慮したうえでのことですが、たばこを成人が頓服で精神安定剤のように用いるのであれば、肉体の健康とは切り分けて評価すべき、というのが僕の持論です。
これは個人の死生観にかかわる問題。酒やたばこ、辛いものなどをあれもこれも我慢して長生きするのが、万人にとって必ずしも幸福とは限りません。少なくとも僕にとってたばこは、気合を入れたりリラックスしたりする際の精神コントロールに非常に役立っています。
効率化だけを追求した余裕ゼロの社会は、いずれ精神疲労で破綻するでしょう。なくても生きられるが、あれば人生が豊かになるのがたばこです。それを楽しむための喫煙所は、社会の路肩、精神の緩衝装置としてぜひ残したいもの。たばこが肉体に及ぼすリスクよりも、多様性やゆとりを認めない全体主義的な思考のほうがはるかに危険です。
■古谷経衡(ふるや・つねひら) 北海道生まれ。若者論、社会、政治、サブカルチャーなど幅広いテーマで執筆評論活動を行う。地上波番組コメンテーター、紙媒体連載、ラジオコメンテーターなど出演多数。「敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻」(幻冬舎新書)が発売中。