約400人の若者が沖縄警察署前に集まり、一部が卵や石を投げつけた襲撃事件。いまだ真相は解明されていないものの、コザの街はすっかり平穏な姿に戻っていた。若者たちの怒りはどこへ行ったのか?
◆暴動の根底にあるのは若者の警察への不信感
「もう二度と集まらない」
警察官との“接触”で右目眼球が破裂し、失明した少年Aの同級生はまったく予期していなかった展開に戸惑っていた。
「僕らが警察署前に集まらなかったら、警察は事件を隠ぺいしていたはず。一部の人が石を投げ、Aに迷惑をかけてしまったけど、真実を知りたいと思っていた人は石を投げていない。怒って投げた人はいただろうけど……。
野次馬も多かった。すでにガラスを割った人が捕まったと聞いた。でも警察は何も発表しないから本当かどうかはわからない。次の日が本番だったけど、あれではAのためにならないと思って、みんなにもう警察署前に集まらないで、とお願いした。しーじゃ(先輩)からも二度とするなと言われている」
◆「あれから警察は奇妙なほどおとなしくなった」
SNSに拡散された、右目から血を流すAのショッキングな映像は、ケガの原因が真偽不明のなか瞬く間に若者の間に広がった。
「巡査は頭がいいから、人前では手を出さない。でも、誰もいないところでは僕らを殴る。見えないところで巡査に殴られた人がいっぱいいるから、警察がまたウソついたとあんなに人が集まったんだと思う。深夜徘徊や暴走行為が悪いからといっても、手を出したらいけないでしょう。あれから警察は奇妙なほどおとなしくなった」(警察署前に集まった男性)
現在、県警捜査一課のもと、真相の解明が進む。ただ事情聴取に応じたくないという少年もいた。
「捜査一課っていっても同じ組織ですよ。公正な捜査なんて、信じられるわけないでしょう」
◆最も恐れたのは市民に被害が及ぶこと
一方の沖縄警察署の傷跡も深い。割られた電光掲示板、落書きで汚された外壁、投げるためにレンガを掘り出された舗道など、暴動の激しさを物語っている。2週間がたっても出入り口には機動隊車両が並び、厳戒態勢が続く。
「警察庁や官邸も含め、一連の事件を深刻に受け止めている。なぜ暴動のときに逮捕しなかったのか?との批判もあるが、最も恐れたのは市民に被害が及ぶこと。暴徒を刺激し、警察署の中まで侵入され、逮捕勾留者が逃げ出すのを防ぐのを優先させたのでしょう。まだ事件は終わっていません。同じような事件が再び起これば、国家の治安を根底から揺るがしかねないので、決しておおげさではない」(警察関係者)
◆沖縄特有の事情も事件に影響か
事件前から「若者の暴走行為を取り締まってほしい」という市民の声も多く寄せられていたという。
「沖縄ではクリスマスや正月、成人式のほか、“パニック”と語呂を合わせた8月29日に暴走行為が多発する」(前出・警察関係者)
事件の発端はコザ十字路での「チャリ暴走」だった。現場沖縄特有の事情も事件に影響したと元暴走族だった男性はいう。
「沖縄の暴走族は交差点をクルクルと回って、どれだけきれいにパトカーを回せるか、フィギュアスケートみたいに『芸術点』を競う。沖縄市ならコザ十字路、胡屋十字路、隣の北谷町では国道58号の国体道路入口付近などを移動しながら暴走行為を行う。
多いときは100人近くのギャラリーがいて、うまく回せれば仲間内で評価は高まるが、警官も人間なので、これをやられるとカチンとくる人はいますね。交差点は夜でも通行量は多く、一般の通行者をひかないかヒヤヒヤする場面もある。また『チビカメ』といって、先輩を逃がすために、後輩は125㏄のスクーターでのろのろとパトカーの進路を遮る。それでまったく無関係だったAが警察に『チビカメ』と間違われたのかもしれない」
◆第2のコザ騒動か?街の人はどう思う
一連の事件の起こったコザ(現・沖縄市。’74年に美里村と合併)は嘉手納基地を抱えることで栄えてきた。
米軍統治下の’70年12月には国道330号(当時は軍道24号)で米兵が通行人を車ではねた事故をきっかけに、米軍関係者の車両80台以上を一夜で焼き払うコザ騒動が起きた街としても知られる。街の人は襲撃事件をどう捉えているのか。
「ヤンキーが沖縄警察署を襲撃しているのを見たらコザ騒動を思い出した。当時は思わず手を叩いて喜んだ。米軍にずっと虐げられてきたのに、怒ることもできなかったから。コザ騒動のときヤンキーと呼ばれていたのは米軍だったけど(笑)」(70代・男性)
「沖縄の恥。那覇では暴動なんて起きない。沖縄市だから起きたと思う。よく言えば、沖縄市は昔ながらの沖縄が残る場所。悪く言えば、時計の止まった街」(10代・女性)
「コロナでバイトもできないし、昨年はエイサーまつりも中止。成人式も中途半端で、みんな鬱憤が溜まっていた」(20代・男性)
「酒に酔った人が石を投げていた。お祭りみたいで、逮捕されないと思っていた。でも先に手を出した警察が悪い」(10代・男性)
◆家庭や上下関係に追い詰められる若者
沖縄署襲撃事件の現場を撮影していた写真家で、那覇市議の普久原朝日氏は「暴力はダメという正論だけでは、何も変わらない」と訴える。
「現場には心配そうに見ている人もいたし、目を輝かせていた人もいました。多くは野次馬だったと報道されています。しかし、そういう分け方は意味がない。’19年、香港デモでも卵を投げていたのは一部の人で、ひどい状況のなかでも賑やかに会話をしていた人たちもいた。圧倒的な力の差を前にしても、声を上げよう、真実が知りたいという姿は変わらない。それなのに『土人』『サル』などとSNSでは沖縄ヘイトがあった。なぜ彼らが追い詰められたのかを考えなければ、問題は解決しない」
「国から沖縄への補助金は多いが、公共事業は内地のスーパーゼネコンが受注し、そこでまずピンハネされる。内地ばかりが悪いわけではなく、沖縄の経営者も悪い。もんちゅう(門中)といって、身内に優しく、他人に冷たい風潮が沖縄にはあり、ブラック企業が多い。とくに建設業界で働く若者は搾取されている。それなのに、襲撃事件では『カネをもらっているくせに』と若者に対して、いわれなきヘイトが投げかけられていた」(地元関係者)
長年にわたり沖縄の不良少年たちを取材してきたフリーライターの神里純平氏はこう話す。
「彼らは朝が来るのをとても寂しそうにしています。離婚率が全国トップの沖縄はひとり親も多く、子どもは寂しい思いを紛らわせるために、夜な夜な仲間とバイクで走り回る。警官に胸ぐらを掴まれたり暴行されたりもするが、大げさに吹聴し、仲間と盛り上がるのが常でした。意外と警察との交流はあり、沖縄特有のしーじゃとうっとぅ(厳しい先輩後輩の関係)からのパワハラ(YSP)に悩み、孤立しそうなときは、こっそり警察に相談して、助けてもらうこともあります」
◆「もし僕が19歳だったら、警察署前にいただろう」
「もし僕が19歳だったら、警察署前にいただろう」。沖縄ロックを代表する「紫」のドラマー宮永英一氏は、コザ騒動の最初の“火”をライブ演奏の帰りに目撃する。
「今回の襲撃が起こったのは、SNSで情報が錯綜し、一時的に感情が抑えられなかったからだと思う。19歳のときに見たコザ騒動に似ている。
その日は米軍の毒ガス隠ぺいに抗議する全軍労などの大規模な集会があって、沖縄のあちこちから集まった人が中の町で夕方から飲んでいた。
深夜、米軍の車がちょっとよそ見して、国道330号を横断していた日本人と軽くぶつかった。MP(憲兵)が事故処理していたら、『犯人を逃がすな。琉球警察を出せ!』と酔った群衆が運転手を引きずりおろし、車を揺するわけ。
当時はみんなタバコを吸うから、周りは吸い殻だらけで、漏れたガソリンに引火。きっかけは偶然だった。最初は誰も火なんかつけていなかったんです」
◆コザ騒動という呼び名には複雑な思い
コザ騒動という呼び名には複雑な思いを打ち明ける。
「コザで起こったから『コザ騒動』『コザ暴動』って言われているけど、コザの人たちはやりたくてもやれなかった。
僕は『ニュー・コザ』という華街で育った。そこである事件が起きたとき、米軍からオフリミット、つまり立ち入り禁止区域に指定された。事実上の経済制裁。みんな仕事を失った。
一度、これほどの苦しみを経験しているコザの人は、どれだけ理不尽な目に遭っても、理性で抑えつける。人一倍、いや十倍も百倍も反抗したい気持ちはあったのに……。もしいま僕が19歳で、仲間がケガしたと聞けば、警察署の前に駆けつけますよ。でも当時と同じで石は投げないでしょうね」
ベトナム戦争が泥沼化していくなか、宮永氏は「闘争の音楽」から「平和の音楽」へ辿り着く。
「米兵はステージにビール瓶を投げてきた。本物のロックを知っていたから、カネを払う以上は僕らにも本物を要求してきた。毎晩、審査員の前で演奏しているようなものだから、それはうまくなりますよ。
やがて彼らに認められると、誰も戦争になんか行きたくないとわかった。明日、ベトナムに送られるかもしれないなか、浴びるように酒を飲み、音楽に救いを求めていた。
あれだけ米軍車両を焼き払ったのにコザ騒動の死者はゼロ。人の乗っている車は燃やさなかった。そこに琉球の『すくぶん』(民族性)を感じたね。不幸中の幸いで、今回も襲撃ではケガ人はいなかった」
歴史の“偶然”がコザの街に交差する。
取材・文/村田孔明(本誌) 取材協力/上原由佳子