起訴された案件だけで7人が死亡している「北九州監禁連続殺人事件」。
もっとも凶悪な事件はなぜ起きたのか。新証言、新資料も含めて、発生当時から取材してきたノンフィクションライターが大きな“謎”を描く(連載第99回)。
緒方の「無期懲役」判決に胸を胸を撫で下ろした弁護団
2011年12月12日、最高裁第一小法廷は松永太と緒方純子についての上告を、それぞれ棄却する決定を出した。これで控訴審における松永の死刑と、緒方の無期懲役の判決が確定することになった。
この知らせに胸を撫で下ろした人々がいる。控訴審の際に緒方の弁護団だった古賀美穂弁護士と吉村敏幸弁護士である。
福岡地裁小倉支部で開かれた一審で死刑判決を受けた緒方が、福岡高裁での二審で無期懲役に減刑されたのは07年9月26日のこと。7人(殺人6件、傷害致死1件)の被害者がいることから、多くの予想を覆す判決だった。先のふたりはそれに直接関わった、いわば当事者である。
今回、私は同裁判で主任弁護人を務めた古賀氏と、弁護人を務めた吉村氏に集っていただき、同時に話を伺う機会を得た。
主任の古賀美穂弁護士と、吉村敏幸弁護士の話
年長の吉村氏が、最高裁が検察側の上告を棄却した際の心境を語る。
「それは安心しましたよ。せっかく控訴審でいい判決を書いてくれたのに、それが死刑になったら辛いですもんねえ」
私が「上告審で判決が覆される可能性を危惧していたわけですか」と尋ねると、もちろんという顔で頷く。
「やっぱり(検察側による)検事上告ですからね。それはもう非常に、みんな心配してましたね。私たちはともに、こういう死刑事件の検事上告って初めてなんで、当初はそんなに大変なのって……。控訴審の判決文がいいので、大丈夫だろうなと思っていたんですよ。そうしたら、いやそんなことはない、検事上告は厳しいんだって人から聞いて、ああそうなのかって。だから(最高裁で)判決が確定して、やっと安心できたんです」
横に並ぶ古賀氏も笑顔で頷いている。そこで、まずは緒方にとって運命の転換点となった控訴審についての話に触れることにした。
突然降り出した雨 傘に入ったら吉村弁護士が『一緒にやらない?』
聞けば、そもそも緒方の控訴審における国選弁護人として声がかかったのは、吉村氏だったという。
「私は最初、これ特別案件できたんですね。特別案件とは死刑とか、残虐な事件。それで特別案件名簿というのがあって、それを回していくんです。特別案件で話がきたとき、北九(北九州監禁連続殺人事件)ですって言われて、北九どっちって聞いたんですよ。そしたら女性の方ですって……。通常の国選弁護って、福岡は東京と違って順番で回していくんです。国選登録してる弁護士にね」
すると古賀氏が口を挟んだ。
「私、名簿なんて全然載せてないんです」
「え? ということは、吉村先生から声がかかったってことですか?」
私は驚いて尋ねる。
「そうなんです。あの、交差点を、信号を渡ってたんですよ。で、ちょうど雨が降り始めたんですね。そしたら私、傘を持ってなくて、パーッて走ってたら吉村先生がいて、『古賀さん、傘に入りなさいよ』って。それで、『あー、すいません』って入ったら、この事件を『一緒にやらない?』って言われたんです」
「女性弁護士さんを何人か当たったんですけど、皆さん断られて…」
古賀氏はそのときのことを思い出したのか、笑い出す。私は吉村氏に、なぜ古賀氏を誘ったのか尋ねた。
「死刑事件の控訴審でしょ。で、たぶんそのまま(死刑判決が)維持されるだろうと。するとやっぱり、話し相手が男性じゃなくて、女性弁護士がいいだろうということで、女性弁護士さんを何人か当たったんですけど、皆さん断られる。それで男性でもいいかと、後輩などにも当たっていたんですけど、なかなかいない。たまたまそこで雨が降ってきて、たまたまそこに古賀先生がいたんです。それでまあ、話し相手、死刑執行までの……」
「先生は被告人が女性だから、女性弁護士を探してるって私に言いましたよ」
吉村氏の言葉に、古賀氏が苦笑しながら訂正を入れる。だが、この偶然が緒方の人生を大きく変えたことは明らかだ。もしも、の話をしても仕方無いが、もしもそうでなかったら、緒方の死刑判決が維持されていたことだって、十分にあり得たのである。私はそこに運命の存在を見てしまう。一方の、話を持ちかけられた側はどうだったのだろうか。
「いい経験になるから、っていう話だったので……」
「古賀先生には躊躇はなかったんですか?」
「えーと、私はなんかあまりその事件のことは詳しくなかったし、どのくらい重大事件なのかってこともよくわかんなかったし、あと、弁護士になって1件目が死刑求刑の事件だったりしたんですよ。ただ、(当時は)他の弁護士と一緒に事務所をやっていたので、たぶんマスコミ対応もあるだろうから、『私ひとりで決めるわけにはいかないので、1回持ち帰ります』って話をしたんです」
そこで同じ事務所の弁護士に相談したところ……。
「なんかかこう、売名行為とか、そういうふうにとられちゃうかもしれないよ、っていうような忠告は受けました。あとはまあ、文字通り大変なだけだよっていう話をされて。で、それでもいいならやってみればいい経験になるから、っていう話だったので……」
5歳の子に『お母さんに会えるようにしてあげる』というくだりで涙
そのような流れで、古賀氏は弁護人になることを受諾したのである。ただ、それから彼女が主任弁護人になってしまうのは、もう一つのきっかけがあった。吉村氏が言う。
「私は事件について書かれた本を見て年表を作っていったんですけど、そのなかで5歳の男の子、佑介くん(緒方の甥=仮名、以下同)ですね。その子を殺していく。そこで(殺害前の)説得として、『お母さんに会いたいだろう。じゃあ、会えるようにしてあげるよ』ってくだりがあった。僕、これを読んで涙が出てきて、先へ進めなくなったんです。で、古賀先生に話したら、『先生、そんなことで主任弁護人務まらないよ』って。主任弁護人は当然自分が出すつもりだったんだけど……」
「いや、そんなこと言ってませんよ」
古賀氏は笑いながら否定する。吉村氏は構わず続けた。
「いやそれで、私が辛かった。ちょうど私の娘がそれくらいだったんで。そしたら彼女が『私がなってもいいよ』って言ってくれたんです。もう即、『ありがとう』って、ははは」
「いやーっ、違うと思うなあー」
当の古賀氏の否定もあって真偽は分からないが、兎にも角にも、その結果として彼女が主任弁護人となったのである。
女性弁護士が緒方の主任弁護人となったことで、一審のときから緒方を支援してきた、セクハラ被害者を支援する民間団体『ぐるうぷ:NO!セクシュアル・ハラスメント(NO!SH)』などとも連携がより強くなったそうだ。吉村氏がその“効果”を語る。
虐待を受けた緒方の写真がいくつも発見されて
「NO!SHの人達も、女性主任弁護人ということで、すごく信頼を寄せたんですね。それからはいろいろ打ち合わせをするなど、太いパイプができました。それでNO!SHの方たちが全国に訴えて、福岡高裁にはそういう女性の支援者たちの署名がいっぱい集まったんです。あとマスコミの論調も、DV事案であるということと、女性が主任弁護人ということで、バーッと広がって……」
NO!SHについては、その関係者が後の控訴審で法廷に証人として立つなど、松永による緒方へのDVと事件との繋がりを立証するうえで、大きな役割を果たしていた。
同時に、緒方弁護団は弁護方針として、松永によるDVによって心理的に支配され、「松永の“道具”となり殺害を実行した」ということに焦点を当てることになった。吉村氏が説明する。
「証拠類のうち、写真類がかなりあって、とりあえず写真を全部見たい、と。それで検察庁の一室に段ボールで十数箱ある証拠類を古賀先生と手分けして見ていると、写真が最後の最後で出てきたんですよ」
そこには松永に煙草の火で「太」と焼き印をつけられたり、同じく入れ墨をされるなど、虐待を受けた緒方の写真がいくつもあったという。吉村氏は続ける。
「一審のなかでは(緒方が)虐待とか暴力を受けたんだとかが認定されなかったんですよ。だけどあれだけの実際上の写真があれば、それは否定はできないだろうと思いましたね」
当時、松永による呪縛から完全には解かれていなかった緒方
緒方弁護団は証拠探しと並行して、すぐに緒方とも面会している。そこには逮捕から4年近くを経てもなお、松永による呪縛から完全には解かれていない緒方がいた。これは古賀氏の言葉だ。
「私たちが初めて面会に行った際に、緒方さんはなにかの話になったとき『子供を松永に授けてもらった』って言ったんですね。それで、こんな目に遭っているのに、そういう言い方をするかなって。そのとき私はすごい違和感があって、で、やっぱりまだ松永の影響っていうのは持ってるんだな、と」
じつは一審の最中にもそのような兆候はあったそうだ。吉村氏が話題に加わる。
「控訴審はどうだったかわからないんですけど、一審の法廷でも(松永と)同席しますよね。横に刑務官を挟んで。あのときなんかも、彼女は松永がなんか物を落としたりとかすると、それでビクッとするとかですね。そんなことはあったみたいで、そういうことから、まだ支配から抜け出せてないんじゃないかと……。まあ、そうは言っても、彼女も言うことは言うんですね。でも、やっぱり怯えてる。時間をかけて、少しずつ、少しずつ脱していったんです」
06年4月以来、緒方弁護団は毎週金曜日に福岡拘置所で緒方と接見をするようになった。時間の経過による緒方の変化については、回を改めて触れる。
同弁護団は06年8月に控訴趣意書を提出。さらに、07年1月24日に始まる控訴審第1回公判の直前である07年1月中旬までに、補充趣意書を提出した。
だが、第1回公判が開かれる前には、予期せぬことも起きていた。
無期懲役判決を受けた緒方純子 逮捕から20年が過ぎたが「出られるとは思っていないみたいです」 へ続く
(小野 一光)