※本稿は、和田秀樹『マスクを外す日のために 今から始める、ウィズコロナの健やかな生き方』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
マスク着用の条件が緩和されても、人の目が気になって外せないという人が少なくありません。日本は同調圧力が高いといわれますが、その理由の一つにこの国では「高等教育」がほとんど機能していないことがあると考えています。
私は事実上、この国には本来の意味の「高等教育」は存在しないと思っています。
日本以外の国では、高等教育は「前頭葉を鍛える」ために存在しますが、日本の大学ではそういうトレーニングは行われていません。そのことが「異論のない社会」を生み出しているのです。
ここで、脳の各部位の機能をざっとおさらいしておきましょう。
たとえば、人が読書しているときは、言語中枢などを司る「側頭葉(そくとうよう)」が活発に活動しています。一方、数学の問題を解くときには、「頭頂葉(とうちょうよう)」が活発に動きます。この2つは、いわゆる「知能指数」に深く関わる部位です。
一方、「前頭葉」を使うのは、おもに創造的な活動をするときと、想定外のことに対処するときです。高等教育は本来、前頭葉のこの2つの機能を鍛えるために存在します。
世界の教育現場の様子を概観すると、今はアメリカやイギリスでも、初等中等教育では「詰め込み教育」が行われています。かつて、両国の初等中等教育では、日本でいうところの「ゆとり教育」のような教育が行われていました。しかし、それでは、当時の日本のような「詰め込み教育」型の教育に勝てないことがわかってきて、両国では初等中等教育に関する方針を切り替え、今に至っているのです。
要するに、欧米でも、初等教育では、側頭葉(読み書き)と頭頂葉(そろばん=計算)を鍛える教育を行っているのです。
ところが、欧米では、大学以上の高等教育では、その方針をがらっと切り替え、「前頭葉教育」にシフトします。
たとえば、アメリカの名門大学の入試では、現在の日本の医学部同様に「面接試験」が行われていますが、日本のそれと決定的に違う点は、日本では、医学部の教授が受験生の面接を行っているのに対して、アメリカのそれでは、面接の場に教授が同席すらしないことです。面接を行うのは、アドミッション・オフィス(入試オフィス)の面接官です。そして、なるべく「教授とケンカしそうな学生」をとるのです。
その背景には、「教授に逆らうような若者」をつくらなければ、社会は進歩しない、イノベーションは起きないという教育的な確信があり、またそれを支える社会的コンセンサスがあります。
大学教授が身につけている知識は、はっきりいって過去のものです。その過去知に異を唱えるような若者をとらなければ、高等教育の名に値しないという矜恃(きょうじ)です。私にいわせれば、アメリカの大学は、荒唐無稽な若者を受け入れて育てるから「コウトウ教育」なのです。
一方、日本では、大学(高等教育)でも、初等・中等教育と同じ調子の「側頭葉・頭頂葉教育」が続きます。
明治維新以来、わが国の高等教育は、欧米にキャッチアップするための人材養成機関としての役目を務めてきました。当初はお雇い外国人、明治中期以降は夏目漱石のような留学経験者が学生の指導にあたり、欧米直輸入の知識をワクチンを打つように植え付けました。
そして、教授のいうことを正確に身につけた若者が、官界、実業界に進出していく。
また、教育界に進んだ者は、師範学校や高等学校、中学校などの教師として、大学で得た知識を複製するように国民レベルにおろしていく。
それは、列強に短期間でキャッチアップするには、じつによくできた知識の伝達システムでした。その結果、半世紀足らずで、少なくとも自意識的には「一流国」の仲間入りを果たしたのです。
日本の高等教育は、今もその成功体験を受け継いでいます。わが国では、高等教育でも、「教育」とは、教授のいうことを丸暗記させることであり、「学ぶ」とは教授のいうことに異論を唱えず、丸暗記することなのです。そして「学ぶは真似ぶ」という言葉が、学習法の要諦として語られる社会になりました。
そうした成功モデルは今も踏襲され、現在の高等教育機関も、簡単には異論のはさめない場になっています。
iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、学生時代、教授のいう通りに仕事のできない人だったので、「ジャマナカ」と呼ばれていたそうです。
私自身も、東大医学部という場では、とうてい大学に残れる学生ではありませんでした。教授に従って、日々、大名行列の末尾について回る。それに象徴される体制に疑問を抱く者は、日本の大学医学部では医局に残れないのです。
いってみれば、日本の高等教育は「初等教育のハイレベル版」でしかありません。知識のレベルの違いはあっても、教え方や学び方は、子供用の教育のままなのです。教師(教授)のいうことをしっかりノートにとって覚える。そうした学生が、大学でも優等生とされます。
そういう教育を受けた人が社会人になると、どうなるか。
たとえば、テレビで、池上彰さんのような解説者の時事(じじ)解説を聞いたとします。欧米にも同じような番組があるのですが、その際、欧米の視聴者の反応は、高等教育を受けた人と受けていない人で、はっきり2つに分かれます。
欧米でも、高等教育を受けていない中学・高校卒の人は、テレビ解説を「ふむふむ」と素直に受け止める。一方、大学以上の高等教育を受けた人は、自分の頭で考え、人のいうことに疑問を投げかける思考習慣がついているため、テレビ解説を聞いても「そうとは限らないよ」というような反応を示すのです。
一方、日本では、高等教育を受けた人もそうでない人も、一様に池上さんの解説に「そうだったのか」と満足して聞き入っている。この「そうとは限らないよ」思考の弱さが、日本では、不必要な自粛に対しても、誰も異論をはさまない要因の一つになっていると、私はみています。
同調圧力を唯々諾々と受け入れて、思考停止する素地には、この国の高等教育の異様な貧しさがあるのです。
さらにいうと、私は21世紀初頭以降、この国で「新自由主義」が進行したことも、同調圧力を高めることにつながったと見ています。
国が国民に「自助」を求め、世間には「自己責任論」が溢れる。そういう社会的空気のなかでは、人は「誰も頼れない」と思い、孤立感を深めていきます。そして、人は孤立を感じると、さらなる孤立を恐れて、同調圧力に屈する傾向が強まるのです。
そうして、同調圧力が高まる条件がずらりとそろった社会をコロナウイルスが見舞うと、どうなるか。
それが、現在起きている広範な「思考停止」状態です。
もともと、日本人は権威に弱く、道徳にも忠実です。それらは、むろん美徳でもあるのですが、その反面、「自分の頭では考えないで、答えを出す」という思考停止状態に陥りやすい傾向でもあります。
自分の頭で考えずに答えを出すのは、一種の「宗教行為」です。「信じる者こそ救われる」という言葉もありますが、宗教は「信念の体系」であり、答えは最初から用意されています。聖典(せいてん)の記述は、疑うべくもない真理であり、それを実験によって検証することなど、不敬以外の何物でもありません。
一方、実験によって検証し、実証するのが「科学」ですが、今の日本人は、残念ながら科学的精神が乏しくなりつつあると、私は思うのです。
たとえば、コロナ対策をめぐっても、この国では、さまざまな施策の費用対効果に関するデータを一向に集めようとしません。
そして、2021年は、「とにかくワクチンが普及するまで、国民全体で我慢すれば何とかなる」という「信仰」のもと、自粛を続けました。2022年は、ワクチンが普及した結果、その大義名分(たいぎめいぶん)を使えなくなったため、理由も目的も効果もはっきりしないまま、自粛策が続けられているのです。
要するに、費用対効果の検証もなく、ロジックもないまま、ひたすら「前例」が踏襲されているのが、2022年の実相です。
たとえば、今、少なくとも2回のワクチン接種がほぼ行き渡って、国民のほぼ全員がマスクをしている状態で、“外出系”の自粛策を全面解除したらどうなるか?
やってみないことには、その結果は私にもわかりませんが、欧米社会では、そうした社会実験に踏み切り、出口戦略を模索しています。
しかし、日本では、そうした実験は行われません。日本の学校には、小学校から立派な実験室が備わっているのですが、ここでもあれこれと試すことは行われず、実験精神が養われているようには、私にはとても思えないのです。
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(精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授 和田 秀樹)