※本稿は、御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)の一部を再編集したものです。
生まれて間もない命が、だれにも知られずひっそりと消えた。
消えてから、人びとはその命がこの世にあったことを知った。
母親が幼い子どもを死なせるニュースが流れるたび、世間は悲嘆にくれる。
私たちの暮らす社会は、こんなにもむごく、冷たく、貧しく、醜くなり果ててしまったのかとため息をつく。父親もわからず、母親からも望まれず、だれにも祝福されないまま消える命。現代社会の人びとは、すべてが手遅れになってしまってから知らされる。なすすべなく見送るほかない。やるせなさ、はがゆさ、腹立たしさ、さまざまな感情が入り交じり、人びとの心をきむしる。
都会の片隅で乳児がこの世を去った直後、インターネットではにわかに母親への擁護論が起こっていた。最終的に死なせてしまったのは母親だが、だからといって母親だけが加害者として逮捕され、そして罪に問われるのは、甚だ不条理きわまることだとして。
「父親にも責任があるのだから、彼女だけが罪に問われるのはおかしい」「この人もつらかっただろうに」「シングルマザーが子どもを育てやすい社会にしなければ」など、ニュースサイトやSNSでこの報せを見た人びとからは同情的なコメントが数多く寄せられた。
我が子を長時間にわたって放置し死なせた加害者である母親が、しかし他方では社会的にも経済的にも疎外され、だれにも助けを求められない孤立状態であったことは疑いようもない。彼女は加害者であり、同時に被害者でもあった。この両面性が、彼女とその子どもの身に悲惨な結末をもたらした。
このような凄惨(せいさん)きわまる事件が起きるのは、社会が道徳的に頽廃(たいはい)しているからではなく、経済的に衰退しているからでもない。ましてや、現代社会が全体として機能不全を起こしているわけでもない。無残としかいいようがない帰結がもたらされたのは、「社会的機能不全」ではない。逆である。大勢の期待するとおりにこの社会が正常運転していたからこそ、この結末が導かれた。
われわれはいま、自由な社会に生きている。
この社会が自由であることをこの上なく愛している。自らが享受している権利である自由を、だれにも邪魔されることのない社会を肯定し、そして推進している。末永く継承されるよう、努力を惜しまない。
自分の望んだように自由にふるまえること、それは他者からの望まない関わりや強制を拒絶できる権利を有することと同義である。だれもが愛してやまない自由という名の権利は、この社会で自分の存在そのものを確立する大前提として肯定されてきた。
他者からの関わりは、自分が気に入らなければ拒絶できる――そのような自由は、とりわけ子育て世代の人びとから強く求められてきた。自分がいま育てている小さな子どもに、不審な他者からの不要な接触を受けるリスクを最小限にするためだ。「子どもとその親にとって安全・安心な社会を実現するべきである」という名目で、こうした社会的要求は肯定されてきた。
子どもを連れて歩いていると、いっさい面識のない間柄であるのに、突然声をかけてきたり、さも親しげに子どもに触ってきたりするような人物は、ひと昔前であれば街の至るところで頻繁に見かけられたものだ。子育ての助言をしたがったり、あるいは単に子どもをあやしたかったりと、目的はさまざまだった。
だが、今日においてはそのような人びとは、親たちからすれば不審人物であり、自分と子どもの安全・安心な暮らしを妨げる迷惑な他者であると見なされるようになった。「他人が危険な感染症のリスクを持っているかもしれない」という懸念が多くの人にとって現実的なリスクとして認識されるようになった時代にはなおさらだ。
「子どもに触ろうとしてくる他人」「子育てに対してあれこれと口出ししてくる他人」を、迷惑な他人、もっといえば安全で安心な暮らしを脅かす不快な他人として定義し、これらを排除することで、自由で快適な生活を手に入れてきた。かつての時代の親たちがそのような他人を必ずしも歓迎してきたわけではない。ときには押し付けがましく、鬱陶しいと思ったこともあっただろう。けれども、他人とは得てしてそういうものだという、ある種の諦念があった。しかしながら、現代社会はそのような人を退けてもよいとする大義名分が人びとに付与されている。
いますぐにでも助けを求めなければ生活が危ぶまれるほどには、経済的にも人間関係的にも困窮していない人にとってみれば、自分がまったく望んでいない人物から、まったく望んでいないタイミングで関わりを持たれることは、ほとんど無用なことだ。社会生活を平凡に送っていくことにはなにも困っていない人に、おせっかいな他人が日常生活の場に現れると、そのたびに歩みや作業を止めてニコニコと愛想笑いを浮かべて受け入れなければならない。
そんな規範がいまだに存在することは、自由で快適な暮らしを享受する個人の権利が侵害されているようにも感じられる。拒絶したくなっても無理はない。現代人の感覚からすれば、自分の私的領域にたやすく他人を招き入れることを平然と受け入れていた時代の方がおかしいと感じるだろう。
他者からの不愉快な干渉を最小化し、個人主義的な社会生活の便益を最大化するライフスタイルは、その代償として、いざという時に助けてくれる他者が自分のもとに馳せ参じてくれる可能性をも一緒に除去してしまうことになった。
もっとも、現時点ではまったく困窮していない、なおかつ今後も困窮する見込みの薄い人にとって、「いざという時」はまずやってこない。自分に与えられた当然の権利を行使することによって生じる副次的影響を自分のこととして想像する理由がない。ひき続き、個人が持ちうる自由を最大限謳歌(おうか)することに、なんらためらう道理がないのだ。
しかし、進退窮まるぎりぎりのラインで生活している人やその子どもはそのかぎりではない。他人から干渉を受けない自由が全社会的に是認される代償として生じる「助けてくれる他者の不在」は、厳しい生活環境に置かれた人びとにとっては大きなリスクになる。
この社会のほとんどの人が、いますぐ子どもを見捨てなければならないほど生活が致命的に困窮していることはない。だからこそ、個人主義的な社会の副産物に臆することなく「自分が必要としているとき以外に声をかけてくる者は、自由の侵害者であり、安全・安心な暮らしを脅かす加害者である」とするいまどきの論調に素朴に賛同する。
この社会的風潮は、だれかが気軽に権利を行使するたびに強まっていく。迷惑な他人に煩わされない自由で快適な社会は、大勢の人びとに快適な暮らしをもたらし、ストレスフリーな人間関係を実現していった。だが、だれもが歓迎して謳歌する、自由で個人的で快適な社会で、その代償を支払ったのは、アパートの一室のトイレで産まれ落ち、そして見棄てられた子どもだった。
置き去りにされて死んだ子どものニュースに悲嘆にくれ、私が親ならこんなひどいことは絶対にしないのに――と涙を浮かべながらニュース映像を眺める人びとは、善人であることになんの疑いもない。しかしながら、まさか自分たちが毎日なにげなく行使しているその自由こそが、間接的に彼女たちをこのような結末に向かわせているとは想像できない。
だれも知らないアパートの一角には、多くの人が悪気なく享受した快適さによってもたらされた静寂が広がっていた。だれの視界にも入らないその場所では、助けを求めようにも、おせっかいで親切なだれかが通りかかることはない。そういう人を迷惑な他人だと疎んじてきたのは、ほかでもないわれわれだったのだから。
われわれの快適な暮らしのために、どこかの街の片隅で、生まれたばかりの子どもは死ななければならなかった。
幼い命が失われるニュースに哀しみ、憤る人びとも、他方では「迷惑な他人を一刀両断」するようなテレビ番組や、インターネットの話題を好んでいる。
子育て中の母親に不躾(ぶしつけ)な助言をしてきたり、上から目線で注意をしてきたりするような親族や他人に対して、胸のすくような切り返しをぶつけてやった――という類いの、俗にいう「スカッとする」コンテンツは、つねに多くの人から好まれており、似たような話題は毎回多くの共感や賞賛を集めている。
この社会で暮らすだれもが、自分が本当に困っているときにだけ、「望ましい関わり」「本当に有益な援助」を提供してくれる人が現れてくれたらいいのにと願う。だが、「面倒くさい他者」「煩わしい他者」「腹立たしい他者」との関わり合いが時折発生する状態を受け入れなければ「窮状に駆けつけてくれる親切な他者」は現れない。都合のよい他者のみを選択的に温存しておくような方法はない。自分にとって害や不快感のある人びとを排除して、快適な暮らしを選ぶのであれば、自分にとって益や助けとなる人びとの登場をも同時に諦めなければならない。
生まれてからわずか数カ月でこの世を去った子どものニュースはあまりにも悲惨だ。現代社会で起こるべき出来事ではない。しかしこの悲劇は、多くの人びとが、自分にとって益のない、不快で有害な他人に関わらなくて済む快適性という恩恵を得るために社会を改善させた結果として生じたものだ。「社会の責任」や「政治の責任」として切断処理して仕舞いになる問題ではない。現代社会の人びとが「自由」という名の神の祝福を得るための、いわば生贄(いけにえ)として捧げられたのだ。
我が子を棄ておいて死なせてしまった悲劇的な事件の加害者として報じられた女性についても同じことが当てはまる。人びとの視界に入らない、遠く離れた場所から伝えられる「ニュース」だったからこそ、彼女は多くの人から同情された。
この「ニュース」に同情を寄せていた人びとでさえ、自分の暮らしている街や人間関係の近くにこうしたリスクを抱えていそうな人がいることに気づいたら、かれらはじつに穏便かつスムーズな所作によって、こうした人を遠ざける。
一人ひとりが自由で快適な暮らしを送る現代社会においては、なにやら深刻でハイリスクな問題を抱えていそうな人もまた、「面倒くさい他者」「煩わしい他者」「迷惑な他者」として疎外される。
「他人に迷惑をかけない人であるかぎり、その弱者は助けるべきだ」という呼びかけには素直に賛同する人は多い。しかしながら、これを現代社会に当てはめて考えると、実質的に「弱者は助けない」といっているのとほとんど同義となってしまう。なぜなら、この社会における弱者とはたいてい、複数の厄介ごとや面倒ごとを抱え、関わりを持てばほぼ確実に他人に迷惑をかけざるをえない人であるからだ。
「ニュース」の中で伝えられた来歴を見るかぎり、加害者の女性には「迷惑な他人」として扱われる要素が散見されてしまう。これでは、たとえ本人が勇気をふり絞って、見知らぬ他者に窮状を訴えようと戸口を叩いても、招かれざる客として追い払われてしまうのが関の山だ。
彼女は、我が子を死なせてしまうという凄惨な結末を迎えてようやく、社会的不公正の被害者として世間の人びとからの認知を得た。だが、そのような結末を迎える前まで、彼女とその娘は社会によって意図的に不可視化された透明人間だった。透明人間になる前は「迷惑な他人」だった。
彼女たちの悲劇は、自由で快適な社会が、明日も明後日も、これからもずっと変わらず、ただしく運用されるために望まれたものだった。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)