昭和天皇は太平洋戦争に反対だった…それでも国家意思として開戦を決めた「御前会議」で話し合われたこと

※本稿は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。
1941年9月5日、近衛首相は天皇に拝謁し、大本営政府連絡会議がまとめた「帝国国策遂行要領」(「要領」)を内奏した。要点は、
というものだ。
日本側が求める「最少限度の要求」のうち、主なものは、
である。さらに、譲歩できる限度も想定した。
というものであった。「要求」は、ハル4原則[(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持]と真っ向から対立するものである。その要求をのませる対価として、「中国以外の近隣地域に武力進出はしない」などの前記の「譲歩」①~③は、あまりにも見劣りした。筆者のみるところ、10円で100円を買おうとするようなものだ。
ともあれ、「要領」は自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない決意をし、10月下旬をめどに戦争準備を終える、そして10月上旬までに対米交渉で上記の要求を貫徹できるめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭戦争を決意する、という内容である。このときすでに、日本は非常に重要な物資である石油が入ってこなくなりつつあった。対米交渉妥結が延びれば延びるほど日本の戦力、国力は削られる。だから交渉に期限を設けることも必要ではあっただろう。
ただ外交は相手の意思や都合もある。敗戦後の日米関係ならともかく、この段階での日米関係はどちらかが相手の要求をすべてのむ、という関係ではない。互いの譲歩が必要なのだ。交渉期限を設定してしまうと、互いの譲歩の余地が少なくなってしまう。しかも「開戦決意」までたった1カ月しかない。『平和への努力 近衛文麿手記』を見ると、天皇は以下のように述べた。
「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点について明日の会議で統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)の両総長に質問したい」
このあたり、戦争回避を願う天皇の視点は鋭い。危機感が増したのだろう。
近衛は、「一と二の順番は軽重を表すものではなく、政府としてはあくまでも外交交渉を行う。どうしても交渉がまとまらなければ、戦争の準備にとりかかる」、という趣旨の返事をした。その上で、翌日の御前会議の前に杉山元陸軍参謀総長と、永野修身海軍軍令部総長を呼んで聞くことを勧めた。御前会議には文官もいて、軍事の詳細を話し合うのは、はばかられたためだろう。天皇は「すぐに呼べ。首相も陪席せよ」と命じた。
天皇は両総長に、要領の順番について近衛にしたのと同じ質問をし、両総長は近衛と同じように答えた。天皇はさらに杉山に聞いた。以下、前掲の近衛手記から再現してみよう。
杉山にとって、3カ月で南方作戦を成功裏に終わらせるのは願望であり、それを実現させる確信はなく、確信の裏付けとなる客観的なデータなどなかったのだろう。だから「3カ月」と判断する理由を説明できなかった。永野が言葉を添えた。
本当に「手術」するしかないのか。外交などの「投薬」を尽くしたのか。戦争だけが「手術」で、他にすべはないのか。疑問は残る。もっとも、アメリカ相手の戦争を始めるにあたり、説得力のある説明は永野といえどもできなかっただろう。戦力で考えたらアメリカに勝てるはずがないし、永野たちも勝てないことは分かっていたからだ。
「一か八か」のような永野の論法を聞いた天皇は、不安をぬぐえなかった。強い言葉でさらに問いかけた(『杉山メモ』)。
天皇が翌日の会議を前にわざわざ2人を呼び出したのは、このことを聞きたかったからではないか。居並ぶ大本営政府連絡会議のメンバーを前に「絶対勝てます」とは、米英との彼我の国力差を考えれば、軍事のプロとしては言えないだろう。かといって「勝てません」とも言えない。そこで本音を言いやすい環境で2人に問うた、ということではないか。
必ず勝つとまでは言えない。しかし、勝算はある。半年や1年の平和を得たとしても、国難が続くことがあってはならない。半世紀先までの平和を考えなければならない。永野はそう言う。その平和は、戦争をすることで見えてくる。そうも言いたかったのだろう。
天皇の「分かった」は、どういう気持ちからの言葉だったのか。「手術=開戦」に納得したのか。あるいは、いいかげんな説明にうんざりして話を打ち切りたかったのか。開戦過程の研究では、この翌日9月6日の御前会議がよく知られている。非常に重要な会議ではあるが、筆者は上記の、前日に行われた両総長と首相による、天皇への内奏も劣らずに重要であったと考える。
天皇は、両総長が対米戦に前のめりになっていることを改めて知ったはずだ。そして、確たる勝算がないことも。そうであれば、文官も含めた各閣僚がいる御前会議の場ではなく、5日のこの時点で戦争回避の意志を強く示すべきであった。永野は「半年や1年……」と述べたが、もし半年ないし1年日本が熟慮を続けていれば、1945年8月の敗戦とは相当違う未来があっただろう。
6日午前10時、御前会議が始まった。終盤に異常な事態が起きた。同会議では発言しないという慣例があるが天皇はそれを破り、明治天皇の和歌を読み上げたのだ。
「避戦」のための、異例の発言だった。「手術=開戦」に納得していなかったことが分かる。しかし、要領は可決された。つまりこの会議から1カ月余り後の10月上旬ごろを期限とし、それまでに日米交渉で日本の言い分が通らなければ、対米英蘭の戦争を決意することが、天皇の前で国家意思として決まったのだ。大日本帝国は戦争へと大きな一歩を踏み出し、ここから破滅への坂を速度を上げて転げ落ちていく。
戦中派の作家、五味川純平は「四方の海……」の場面について言う(『御前会議』)。
天皇の「避戦」の意思は、軍部に伝わった。御前会議から帰った東条英機陸相は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と述べた。武藤章軍務局長は「オイ戦争なぞはだめだぞっ。陛下はとてもお許しになりっこない」と言った(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。しかし、わずか3カ月後に戦争は始まる。五味川は嘆息する。
「輔弼」とは、明治憲法が定める規定で、各国務大臣が天皇の判断や行動が正しくなされるように務める、というものだ。天皇が「自分は戦争を望まない」と言っていたら、この規定によって避戦へと方向が変わったのではないかと、五味川は見る。しかし天皇はそこまで明瞭に意思は示さなかった。だから、天皇が戦争を望んでいないことは分かっても恐懼=恐れ入っただけだった。
天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、開戦への説得工作を進めた。
石油や船舶の確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。結果的に見て大甘の見通しであった。しかし開戦に前のめりの軍官僚たちも、安心材料が欲しかったのだろう。自分たちが作ったデータが催眠術となり、「何とかなる」と思い込んだのではないか。もし、彼我の国力差を知ってなおアメリカに勝てると本気で思っていたら、それは医学の問題に関わってくるだろう。
ただ、陸海軍ことに海軍には慎重論も根強かった。アメリカとの戦争となれば主戦場は太平洋であり、となれば海軍力が勝敗を大きく左右する。当時は軍艦の保有量などで見ると米英が世界1位と2位で、帝国は3位だった。イギリスはドイツとの戦争で相当の戦力を割かなければならず、アメリカも大西洋に艦隊を配置しなければならなかったが、それを織り込んでも帝国海軍の物量的劣位は明らかだった。
「勝てるはずがない。戦争はすべきではない」というのが、純軍事的な判断である。
沢本頼雄海軍次官(当時)の手記によれば、連合艦隊司令長官、つまり現場の最高司令官である山本五十六は1941年9月29日、対米戦を予想して、永野にこう言っている。
アメリカは、日本が有利に戦っている限り戦争をやめないだろう。戦争は数年に及ぶ。日本の資材はなくなり、補給が難しくなる。アメリカに張り合うことは困難になる。日本内地はともかく、併合した朝鮮や植民地の満州、台湾などの統治も難しくなる。勝ち目の小さい戦争はすべきでない。米駐在武官を経験し、相手の国力や国民性をよく知る山本らしい卓見であった。
戦争はおおむね彼の予想の通りに進んだ。ただ、その被害の大きさは山本の想像以上であったかもしれない。
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(毎日新聞記者 栗原 俊雄)