【声を放つ 当事者の証言】 佐藤英之さん(「批評社」編集長) ◇ ◇ ◇ 2008年6月8日午後0時半ごろ、派遣社員の加藤智大・元死刑囚(事件当時25)が、東京・秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、通行人らをはねた後、ナイフで切りつけた。10~70代の7人が死亡し、10人が負傷。15年2月に殺人罪などで死刑判決が確定し、今月26日に刑が執行された。 加藤元死刑囚の裁判は、10年1月に東京地裁で始まった。弁護側は殺傷を認めつつ、責任能力について争う姿勢をみせた。1審、2審は死刑判決。しかし加藤元死刑囚側は「死刑は重すぎる」などと主張し上告。最高裁判決で刑が確定したのは15年2月だ。 加藤元死刑囚は1審判決後から死刑確定までの12年7月から14年8月に手記を4冊(すべて批評社)出している。 批評社の佐藤英之編集長は、編集作業のため、東京拘置所で20回程度面会を重ねている。 「初めて会ったときは『なぜ彼があんな事件を起こしたのか』と。それほど礼儀正しく、素直な人でした。印象は最後まで変わらなかったが、プライベートな話は一切しなかったですね。面会時間は15分と限られていましたから、出版に関する手続きの話をしていました」 出版のきっかけは、同社で発刊する雑誌「精神医療」の編集委員会だった。 「委員会に出席する医師から『原稿を読んで出版の可否を決めてほしい』と頼まれました。加藤くんの意思で書かれた手書きの原稿で、一文字一文字丁寧な字で書かれていて、表現も繊細。とても真面目で頭がいいのだと思いました。大きな事件の被疑者の手記ですから、出版に値するだろうと返事をしました」 「やる理由」が何であれ、「やらない理由」があるなら、やりません 事件直後の報道では幼少期の経験が影響を与えていると伝えられた。検察側の冒頭陳述などによれば、派遣社員時代の不満やはけ口にしていたネットの掲示板で思いやりのない対応をされたという。こうした積み重ねが事件の引き金を引いたとみられるが、佐藤さんは違和感を覚えたという。 「加藤くんの文章を読み面会を重ねると、動機として理解ができない。遺族にも謝罪を出していますが、表面的なお詫びの言葉を並べているだけでしたから。事件の日、彼はトラックに乗り、歩行者天国の周りで逡巡していました。そこで突入しない選択肢を選べなかったのはなぜか。『これでは赦されない。内省を書いてくれないか』と手紙も送りましたが、それには答えませんでした」
【声を放つ 当事者の証言】
佐藤英之さん(「批評社」編集長)
◇ ◇ ◇
2008年6月8日午後0時半ごろ、派遣社員の加藤智大・元死刑囚(事件当時25)が、東京・秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、通行人らをはねた後、ナイフで切りつけた。10~70代の7人が死亡し、10人が負傷。15年2月に殺人罪などで死刑判決が確定し、今月26日に刑が執行された。
加藤元死刑囚の裁判は、10年1月に東京地裁で始まった。弁護側は殺傷を認めつつ、責任能力について争う姿勢をみせた。1審、2審は死刑判決。しかし加藤元死刑囚側は「死刑は重すぎる」などと主張し上告。最高裁判決で刑が確定したのは15年2月だ。
加藤元死刑囚は1審判決後から死刑確定までの12年7月から14年8月に手記を4冊(すべて批評社)出している。
批評社の佐藤英之編集長は、編集作業のため、東京拘置所で20回程度面会を重ねている。
「初めて会ったときは『なぜ彼があんな事件を起こしたのか』と。それほど礼儀正しく、素直な人でした。印象は最後まで変わらなかったが、プライベートな話は一切しなかったですね。面会時間は15分と限られていましたから、出版に関する手続きの話をしていました」
出版のきっかけは、同社で発刊する雑誌「精神医療」の編集委員会だった。
「委員会に出席する医師から『原稿を読んで出版の可否を決めてほしい』と頼まれました。加藤くんの意思で書かれた手書きの原稿で、一文字一文字丁寧な字で書かれていて、表現も繊細。とても真面目で頭がいいのだと思いました。大きな事件の被疑者の手記ですから、出版に値するだろうと返事をしました」
「やる理由」が何であれ、「やらない理由」があるなら、やりません
事件直後の報道では幼少期の経験が影響を与えていると伝えられた。検察側の冒頭陳述などによれば、派遣社員時代の不満やはけ口にしていたネットの掲示板で思いやりのない対応をされたという。こうした積み重ねが事件の引き金を引いたとみられるが、佐藤さんは違和感を覚えたという。
「加藤くんの文章を読み面会を重ねると、動機として理解ができない。遺族にも謝罪を出していますが、表面的なお詫びの言葉を並べているだけでしたから。事件の日、彼はトラックに乗り、歩行者天国の周りで逡巡していました。そこで突入しない選択肢を選べなかったのはなぜか。『これでは赦されない。内省を書いてくれないか』と手紙も送りましたが、それには答えませんでした」