「後々まで人生狂わせる」 二つの核被害知る原爆孤児が伝えたいこと

絶望のあまり、川に身を投げようと考えたことは一度や二度ではなかった。ロシアによる攻撃で親を亡くすウクライナの子供たちの姿は、そんな子供の頃の自分と重なる。チェルノブイリ原発事故調査のためウクライナでの活動経験もある原爆孤児の女性が、自分の過酷な体験を広く語っている。原爆と原発。核危機が高まる中、二つの核被害を知る立場から、いま最も伝えたいことは。
「人への思いやりが重要」
広島市東区の山田寿美子さん(79)は7月下旬、広島市内の高校生約30人が集まって複数の被爆者から経験を聞くワークショップに証言者として参加した。生徒から「将来への希望は」と尋ねられ、「差別のない社会、核兵器のない社会をつくること」と応じた。そして、「人に対しての思いやりが平和には重要だよ」と語りかけた。
乾物屋の三女で、1945年8月6日、同市の爆心地から2・3キロの母の実家で被爆した。まだ2歳で、当時の記憶はない。爆風で吹き飛ばされ、顔や頭にガラスの破片が突き刺さったと、長姉から聞かされた。
爆心地付近で被爆した父は帰らず、遺骨は見つかっていない。大やけどを負った母は約2週間後、「寿美子のことを頼むよ」と親族に言い残して亡くなった。
被爆後の暮らしは残酷だった。長姉が結核で入院、2番目の姉は結婚し、山田さんは親戚宅を5、6年間、転々とした。トイレを使わせてもらえず、納屋で寝泊まりをしたこともあった。実の親子関係ではないことが気詰まりで、食事にも気兼ねした。「私はお荷物扱いだったと思う。私の気持ちとは関係なく、親族会議で次にどこに行くかが決められていった。両親に一度でいいから会って、甘えたかった」と振り返る。鉄橋の上を走る列車から川へ身を投げようと思ったこともたびたびだった。
それでも、苦学して前に進んだ。中学3年の時、結婚した長姉から呼び寄せられて岡山に引っ越し、義兄の勧めで、1年浪人して高校に入学。勉強できることがうれしくて、愛知県内の福祉系大学に進んだ。
大学卒業後は広島市内の福島生協病院に就職した。卒業論文で被爆者の生活実態を調査したことが縁だった。患者を福祉面でサポートする医療ソーシャルワーカーとして、患者の相談・支援に携わった。
今でも記憶に強く残っている患者がいる。就職直後から20年以上対応した、同和地区出身の被爆者の男性だ。
希望する職には就けず、日雇い労働を転々とする日々。アルコール依存症になり、妻と子どもは家を出た。病院でも声を荒らげ、手を焼く患者だったが、入退院を手伝ったり、相談に乗ったりするなど親身に対応した。しかし、最期は自宅でひとり酒瓶を抱えて亡くなっていたという。さまざまな困難の末、倒れた男性の姿に、「後々まで人生を狂わせる原爆に怒りを覚えた。同じように苦しんだ人を他にも大勢見てきた」と声を震わせる。
チェルノブイリ事故被害者から聞き取り
被爆から半世紀後、同じ「核」に苦悩する人々に出会った。86年に当時ソ連下のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故の被害者たちだ。被爆者支援の経験を買われ、広島県内の市民団体の要請で、96年7月、原発被ばく者の実態調査のためウクライナに赴いた。医薬品確保などに奔走しながら、事故処理に当たった消防士や、甲状腺障害を訴える子供たち数十人に聞き取り調査を行った。
当時、事故から10年がたち、補償が打ち切られたり、医療費が有料化されたりし、被ばく者支援の縮小が始まっていた。医薬品が買えないためか、子供たちは胃腸が弱く病弱だった。甲状腺の病気を抱えていた若者が、「食事が出せない」として閉鎖された病院から退去を余儀なくされたケースもあった。
帰国間際、同行したウクライナ人の女性通訳の「自分たちは汚染された土壌からできたものを一生食べ続けないといけない」という言葉に胸を突かれた。「核による被害で、心身に癒えぬ傷を抱えたまま長年苦しむ姿は、広島もチェルノブイリも同じだった」
ロシアのウクライナ侵攻以降、当時出会った人たちの顔が脳裏に浮かぶ。「一緒に写真を撮った子供たちはどうしているのか」。心配は尽きない。
核兵器の使用リスクが高まる不穏な国際情勢を前に危機感は強い。「自分と同じような子供を生む戦争が続く限り、悲しみも続く。最も伝えたいのは、大切な家族や将来を奪う戦争と核兵器を世界からなくすこと。核兵器禁止条約の加盟国を増やし核のない世界に近づけるべきだ」と訴える。
4日午後2時から、日本生活協同組合連合会などが主催する「2022ピースアクションinヒロシマ・ナガサキ」にオンライン出演し、体験を語る。特設サイト(https://peace.jccu.coop/2022hiroshimanagasaki)から無料で聞ける。【岩本一希】