記者たちは米軍「特権」とどう向き合ったか 地位協定の実態追う

日本と米国の間で在日米軍の基地使用などを取り決めた日米地位協定は「在日米軍によるさまざまな被害の元凶」と呼ばれながら、一度も改定されていません。2年以上にわたってこの実態をあぶりだそうともがいた「特権を問う」取材班の記者たちは、どのように問題と向き合ったのか。取材過程を含めて書き下ろした新著「特権を問う ドキュメント・日米地位協定」の冒頭部分を紹介します。全5回の初回にあたる今回は本編に入る前の「プロローグ」から。登場するのは米軍ヘリの首都低空飛行問題に迫った記者たちです。
鈍色(にびいろ)に沈むビル群は窓から遠ざかるほどにかすみ、輪郭をあいまいにしていた。光化学スモッグの影響か、大陸から流入した微小粒子状物質のせいかはわからなかったが、その日も午前中からかなり外気温が上昇していることはうかがえた。展望室内の空調は十分に行き届いている。だが、ハンディカメラを握る加藤隆寛(45)の右手は汗で湿っていた。
2020年8月18日、午前10時45分。毎日新聞東京本社映像グループの記者である加藤は、地上202メートルの東京都庁北展望室(新宿区)で、在日アメリカ陸軍の多目的ヘリコプター「UH―60 ブラックホーク」の飛来を待っていた。「ブラックホークが新宿で異常な低空飛行を繰り返している」。東京社会部の大場弘行(44)がつかんだ情報を基に、その証拠映像を押さえるためだ。
米軍ヘリの動きをとらえるため、取材班が本格的な張り込みを始めてから約1カ月。加藤が大場から最初に取材協力の打診を受けて、およそ1年が経過していた。新型コロナウイルスの感染拡大という予期せぬ事態も影響し、取材は思うように進まなかった。加藤もまだ「決定的」と言えるような証拠映像を押さえることはできていない。しかし、この日は午前中から米軍に動きがあり、何か起きそうな気配が漂っている。「まだ来ない、か……」。加藤は視界の悪さにいら立ちながらも、注意深く港区六本木の方角に目を凝らし続けた。
大場は都庁から約4キロ離れた別の高層ビルのフロアでハンディカメラを構えていた。在日米軍基地「赤坂プレスセンター」のヘリポートに向けてズームの倍率を上げる。40分ほど前に姿を現した白いワゴン車がまだ待機している。「そろそろ来るはずだ」。鼓動が早まる。
ヘリポートに黒い機体が悠然と降り立ったのは午前10時51分のことだ。水平尾翼に「UNITED STATES ARMY」の文字が見える。ブラックホークだ。アスファルトの地面を滑るように移動して駐機スペースにとまると、側面のドアが開いた。ヘルメットをかぶった乗組員が姿を現し、誰かを探すようにキョロキョロしている。ヘリポートの脇には迷彩服姿の6人の若い男女がいた。3人は男性で黒いショルダーバッグとクーラーボックスのような青い箱を持っている。女性たちに荷物はなく、スマホを見ている人もいる。アスファルトの上は暑いのだろう。どこかけだるそうだ。ヘリに向かってゆっくりと歩いていく。
乗組員が機体から10メートルほど離れたところに立って誘導を始めた。6人は回転するプロペラの下をくぐるようにして機体に近づき、順番に乗り込んだ。ドアが閉まる。プロペラが高速で回り始めた。大場は右手でビデオカメラを回しながら、左手でスマホを取り出し、加藤に電話をかける。
「これから飛び立ちます」
早口で伝えると、加藤は「了解」とだけ言って電話を切った。「バタバタ」というプロペラ音が大きくなる。巨大な機体がウソのようにフワッと浮いた。
ブラックホークの黒いボディーは、ヘリポートの周囲にたち並ぶビルの暗色に同化して視認しづらい。加藤が「あの辺から出てくるはずだ」と見当を付けていた箇所とは異なるポイントからふいに現れ、気付いた時には20階建てほどのビルより少し上のあたりを飛んでいた。「くそっ」。あわててカメラを振る。しかし、フレームの中になかなか機影を入れることができない。
日本の航空法は、人口密集地では航空機から半径600メートル内にある最も高い建物の上端から300メートルの高さを「最低安全高度」と定め、それよりも高く飛ぶように規定している。事故や故障が生じた際、地上に危険を及ぼさず不時着するのに必要な高さで、国際民間航空機関(ICAO)と同じ基準だ。
在日米軍には日米地位協定に基づく航空特例法により、日本の最低安全高度が適用されない。だが、地位協定は日本法令の尊重義務も規定しており、どこをどう自由に飛んでも良いというわけではない。過去には、在日米軍の戦闘機が基準以下の低空飛行をしていることが発覚し、米側が事実上の謝罪をしたケースもあった。
有無を言わさぬ決定的な証拠を突き付けるには、異なる複数の場所から撮影することにより、周囲の建物と機影の位置関係から「明らかに最低安全高度以下で飛行している」と示す必要がある。大場と加藤が別々のビルからはさみうちを狙ったのはそのためだ。
大場は飛び立ったヘリの背後からカメラを回し続けていた。青山、表参道、原宿の上空を通過し、代々木公園の上空あたりで高度が一定になる。おそらく200メートル台だろう。都心を飛ぶ日本のヘリの高度の半分もない。するとブラックホークは突然、急カーブを曲がるように右に旋回し、北に進路を変えた。行く手に西新宿の高層ビル群がある。加藤がカメラを手に待ち構えている方向だ。
「狙い通りだ」
大場は小さく叫んだ。
視力が人間の6~8倍あるとされる鷹(たか)は、空中で翼を広げて旋回したり、減速・加速を繰り返したりしながら地上の獲物を見つけ、捕食する。加藤のいる都庁から見て左から右へ。低空のままじわりじわりと、他のヘリでは見たことのない軌跡を描いて渋谷方面へと進んでいくブラックホークの姿が、猛禽(もうきん)類である鷹と重なった。
渋谷を越えてそのまま西方面へ飛び去るかと思った刹那(せつな)、まるで「獲物」を見つけたかのように鷹は進路を変え、右旋回した。都庁に向かってまっすぐ飛んで来る。それも地上202メートルの展望室とほぼ同じ高さだ。間違いなく最低安全高度より低い。手が汗で滑る。「さあ来い。一部始終、撮ってやる――」<敬称略。本文に登場する人物の年齢、肩書、部署名などはすべて当時のものです。2回目は8月11日午前10時に掲載します>
「特権を問う ドキュメント・日米地位協定」
日米間の密約や空域の貸し借り、米軍ヘリによる都心低空飛行、基地の島・沖縄でやまぬ被害など、日米地位協定を巡る実態を追いかけた「特権を問う」(2020年2月~)の報道を基に、取材過程やそれぞれの記者の心情を加筆して書き下ろした。296ページ。毎日新聞出版から22年7月23日発売。1870円。