B29空襲「焼夷弾が雨あられ」、性別も年齢も分からぬ遺体の地獄絵図…「正しい戦争ない」

あの日の音の記憶に、77年たったいまも、さいなまれる。
「正午の時刻を告げるサイレンあるでしょう。戦時中を思い出すから、嫌なのよ。防空


(ごう)へ避難を呼びかける警戒警報は『ウー』。外出禁止の空襲警報は『ウー、ウー』と途切れるの」
1945年3月17日の神戸大空襲を、神戸市の湊川神社そばで育った岡本敬子さん(86)(兵庫県三木市)が怒気をにじませつつ、静かに語り始めた。

7人きょうだいの末っ子として楠町で育った。
父は大工として、母は家のことを切り盛りした。長女と次女は結婚し、長男と次男は、外地に出征。四男も、小学校ごとの集団学童疎開で岡山県津山市へ向かった。
多聞国民学校で勉強した記憶はない。畑の手入れ、防空壕への避難訓練を繰り返した。友達に会えることや、給食が楽しみだったが、給食もなくなり、大声で笑うことも禁じられた。
攻撃は激しさを増した。
45年1月、明石市の川崎航空機明石工場、2月に神戸市の川崎・三菱造船所などが標的になった。3月になると、東京、名古屋、大阪と

焼夷
(しょうい)弾による米爆撃機B29の夜間大空襲が始まった。
両親は、「次は神戸やな……」と恐れた。服を着たまま寝床に入った。

3月17日未明、空襲警報が鳴った。投下された照明弾が闇夜に光り、ザァーッという不気味な音が続いた。B29から焼夷弾が降ってくる音だった。
「落ちるんじゃない。ものすごい数が雨あられのように降ってくる」
あちこちで火の手が上がり、自宅も炎に包まれた。炎と煙、人々の泣き叫ぶ声、怒り狂った声の中を、家族4人で離ればなれにならぬよう逃げた。父と兄が、煙で痛めた目元を手ぬぐいで冷やしていた。
真っ黒焦げで性別も年齢も分からない遺体の数々。手や足首が転がっているのも見えた。地獄絵図のようだった。避難所で乾パンとおにぎりが出されたが、食欲はなかった。
「ぼう然として、涙も出ない。子どもなりに『泣いたらまわりの大人に怒られる』という遠慮もあった」
一家は、着の身着のまま母の古里だった三木市の親戚を頼って避難。転校先では「焼け出され」と、からかわれ、いじめられた。弁当が持参できず、昼ご飯を食べに帰宅するふりをしたこともある。

「とにかく勉強を頑張ろう」と誓い、中学、高校へ進学。高校の制服は用意できず、別の高等女学校を出た親戚のセーラー服を着て通った。
卒業後は、銀行に就職し、高校の同級生だった夫と結婚。3人の子を育て、孫にも恵まれた。
約2、3年前に体験記をつづった。「戦争を知る最後の世代として、あのとき感じたことを忘れないように」と、求められて三木市内での集会、地元のコミュニティーエフエム局などで、自らの体験を話したこともある。ただ、自分より若い世代から、「日本の戦争は正しかった」と聞いた時は、がくぜんとした。
「正しい戦争なんてない。戦争は、ゲームや映画じゃない。生身の人間を殺すこと。ウクライナ侵略の激戦地のような光景が、日本にもあったんです。過去に無関心であってはならない。私は、火の中を必死に逃げ惑ったあの日が、頭から離れません」(畑夏月)
◆神戸大空襲=神戸への大規模な空襲は1945年2~8月にあり、犠牲者は8000人を超えるともされる。3月17日未明の空襲では、神戸西部が焦土と化した。