「筑波海軍航空隊」基地跡に地下施設 本格的調査で発見

茨城県笠間市旭町の「筑波海軍航空隊」基地跡で、太平洋戦争末期の地下道や地下室が発見された。空襲や本土決戦に備え要塞(ようさい)化した施設の一部とみられ、戦況が悪化していた当時の状況を伝える遺構として「筑波海軍航空隊記念館」が、発掘調査を進めている。【宮崎隆、長屋美乃里】
発見されたのは旧司令部庁舎周辺の地下に掘られた、約30平方メートルの地下室や、延べ約1キロにわたり張り巡らされた地下道など。地下室は中央が壁で仕切られた構造で、地下道は人が通れるほどの大きさ。本土決戦に備え、防空壕(ごう)や連絡通路の目的でつくられた可能性があるという。
同航空隊は戦闘機操縦士の訓練などを目的に設立された。旧司令部庁舎は終戦後、県立病院の管理棟などに流用され、2013年以降は航空隊記念館として、戦争の歴史を伝えてきた。
地下施設の存在については、関係者の間で指摘されてきた。県立病院の設計図では、既存の地下空間を転用して配管を設置したことを明記。地域住民らの証言なども残されていたためだ。
市は12年、既に確認されていた約2キロの地下道を調査。記念館は基地外の地下戦闘指揮所に向けた通路と排水路を兼ねていたとみるが、地下施設全体についての調査には踏み切れていなかった。
しかし今年4月、記念館が航空隊の歴史をつづる冊子を企画したことをきっかけに本格的な調査が実現した。金属探知機器による地中探索などで、地下道や地下室の出入り口を発見。7月下旬には、土砂を掘り起こして地下室に立ち入り調査した。発掘では士官が使ったとみられるいかりのマーク入りの食器や、航空機のエンジンプラグといった複数の遺物を回収し、8月末まで調査を続ける。
記念館の金沢大介館長は「今回の発見で、航空隊が本土決戦の守備隊と位置づけられ、基地が整備された経緯が浮かぶ。戦時中に何が起こったかを知る上で、重要な役割を果たすだろう」と話す。
兵士でさえ存在を知らなかった
「新設中ノ戦闘指揮所ヲ急速ニ整備シ飛行場ニ於(お)ケル指揮ヲ適切ナラシムル」
1945年2月23日付けの筑波海軍航空隊「戦闘詳報」には、戦闘機基地の要塞(ようさい)化が急務との記述が残る。終戦の約半年前。空襲は激しさを増し、本土決戦が現実味を帯びていた。
茨城県城里町出身の川原清さん(93)=埼玉県所沢市在住=は同年1月、同航空隊の機関科に配属された。当時、基地が要塞化されていることも、地下施設が整備されていることも知らなかったという。ただ、この年の2月か3月のある時、同僚の機関兵が大勢いなくなったことを覚えている。「今思えば地下で電気設備の仕事をさせられていたのではないか。上官にも聞くに聞けなかったし、少年兵の自分には秘密だったのだろう」
兵士でさえ存在を知らなかった地下施設だが、45年8月の終戦直後に何者かが出入りした形跡が残る。今回の記念館の調査で、地下道の壁から見つかった落書きの一つは「君忘れじのブルース」。淡谷のり子さんによる48年のヒット曲のタイトルだ。旧司令部庁舎は終戦後の一時期、旧制水戸高校などの校舎として利用されており、記念館は「生徒らがいたずらで地下道に入ったのではないか」と推測する。
戦後77年の歳月を経て再発見された地下施設。県内の戦争遺構に詳しく、今回の調査にも協力した筑波大学人文社会系の伊藤純郎教授(日本近代史)は「公文書である戦闘詳報が物語る歴史が、今回の発掘で実際に目の前に現れた。本土決戦を見据えた戦闘指揮所の存在は意外と知られておらず、評価すべきだ」と指摘する。
筑波海軍航空隊
1934年、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊として開設され、38年に独立した。1500人以上の若者が操縦訓練を受け、太平洋戦争末期には、多くの特攻隊員を送り出した。戦後、跡地は学校を経て旧茨城県立友部病院(現・県立こころの医療センター)になり、旧司令部庁舎はほぼ当時のまま病院の管理棟に流用された。特攻隊を扱った映画「永遠の0」や、戦艦大和の建造をめぐる謀略を描いた「アルキメデスの大戦」などのロケ地としても知られ、現在は記念館として一般公開されている。