東京・高田馬場駅の周辺を歩くと、ミャンマーの食材店やレストランをあちこちで見かける。路地裏ではミャンマー語が聞こえてくることも。なぜこの地が、ミャンマーの店が集まる「リトル・ヤンゴン」となったのか。(神園真由美)
高田馬場駅を出て早稲田通りを渡り、通り沿いの11階建ての雑居ビルに入ると、丸みを帯びたミャンマーの文字で書かれた案内板が目に入ってきた。見慣れない食材を扱う店も所狭しと並び、異国の市場にいるような雰囲気だ。ビルの外も、駅周辺の新宿区高田馬場から豊島区高田にかけ、路地にはミャンマー料理店が点在している。
その理由を聞くため、地域の古参のミャンマー料理店「ルビー」の店主チョウ・チョウ・ソーさん(59)のもとを訪ねると、「もとはナカイがリトル・ヤンゴンだった」とヒントをくれた。
1988年に大規模な民主化運動が起きたミャンマー(当時のビルマ)では、国軍の武力鎮圧で多数の死者や逮捕者が出た。その後、軍政の弾圧から逃れるため、祖国を離れ日本に渡る人も。チョウさんもその一人で、91年に日本にやって来た。
しかし、言葉もわからず、保証人もいないため部屋を借りるのが難しい。先に来ていた仲間を頼ったところ、西武新宿線中井駅(新宿区)の周辺に複数のアパートを持つ日本人が手を差し伸べてくれた。
「第2次世界大戦中にミャンマーにいた父親から、困っているミャンマー人を助けるように言われた」と、保証人なしでも契約し、多くのミャンマー人が集まっていたという。
ただ、ミャンマー人の拠点は住宅街の中井から、徐々に高田馬場に移っていったようだ。当時、新宿や新大久保の飲食店で働く人が多く、中井から西武線で2駅目の高田馬場で乗り換える人も多かった。NPO法人「日本ミャンマー・カルチャーセンター」理事長の落合清司さん(60)は「亡命者はミャンマーの都会で働いていた人が多く、中井から近く、にぎやかな高田馬場に懐かしさを感じたのでは」とみる。
95年には、ミャンマー人オーナーの雑貨店が高田馬場に開店。その後は料理店も増え、2000年代前半には高田馬場がリトル・ヤンゴンとして知られるようになった。
今では高田馬場周辺に住むミャンマー人は約1000人にのぼる。料理店だけでも15を超え、祖国にも高田馬場は知られた存在だ。
1989年に来日した元大学講師のタン・スィゥさん(61)にとっても、高田馬場は思い入れのある場所だ。
タンさんも88年のデモに参加し、目の前で友人が射殺され、命からがら日本にたどり着いた。来日後は建築現場で働き、休みの日曜になると足を運んだのが高田馬場だ。
目的地は、駅前の貸し会議室。仲間が、集まりやすい場所として指定した場所だった。ここで在日ミャンマー人たちがグループを作り、祖国の民主化運動を支援するため話し合った。
それから30年あまり。グループはタンさんが代表のボランティア団体「ミャンマー市民協会」となり、高田馬場を拠点に、在日ミャンマー人の生活支援を行っている。
タンさん自身も2005年に高田馬場に移り住み、2人の子どもは地元の区立小中学校に通った。12年には、自宅近くでミャンマー料理店「スィゥ・ミャンマー」を開店。大使館員や留学生ら在日ミャンマー人に「ふるさとの味」と慕われている。
難民認定を受けているタンさんは、「日本で過ごした時間の方が長くなってしまったし、子どもが生まれ育った高田馬場は家族の思い出が詰まった場所」と愛着を見せる。ただ、「いつかは祖国に帰りたい。民主化は自分たちの世代で難しくても、次の世代、その先もある」と信じている。
リトル・ヤンゴン高田馬場には、祖国で迫害を受けながらも、民主化をあきらめず、日本で肩を寄せ合って暮らす人たちの姿があった。