太平洋戦争末期、沖縄県にある八重山列島で、軍の作戦により各島の住民がマラリア発生地である別の島に強制疎開させられ、感染した3000人以上が死亡した。「戦争マラリア」と呼ばれる悲劇。列島の石垣島出身で長野県安曇野市に住む高橋喜和さん(76)が、この出来事を語り継ぐ活動をしている。西表島に疎開させられ、人口の30%が死亡した波照間島民を描いた長編叙事詩「ハテルマシキナ」(桜井信夫作)の朗読などを通じ、現代に戦争と平和を問う。【去石信一】
高橋さんは終戦翌年の1946年に生まれた。父親は3歳の時に病死。母子家庭で育ち、経済的理由で中学を卒業すると大阪に出て自動車整備の仕事をしながら定時制高校を卒業。機械が好きで、航空自衛隊で飛行機整備の仕事に就いた。
久しぶりに沖縄に帰った時だった。制服姿で歩いていると、見知らぬ何人もの人に「軍隊なんか要らない。帰れ」と非難された。地上戦などで多数の犠牲者が出た沖縄の反応だった。
「自衛隊は自分がいる所ではない」との思いが強まり、退職。甲府市などでさまざまな仕事をし、行商で訪れた長野県が気に入った。74年に移り住んで松本市役所に就職し、学校給食や水道など現業部門で働いた。
「ハテルマシキナ」は新聞記事で知った。ハテルマは沖縄最南端の人が住む島「波照間」。「シキナ」はひょっとしたらと思ったら、自分の母校・石垣中の「識名信升(しきなしんしょう)」校長のことだった。卒業後、大阪の職場まで様子を見に来てくれるほど親身で、恩を感じていた。戦争中は波照間島で勤務し、西表島の疎開先で青空学級を開くなど、島民のために尽くした人として詩で紹介されていた。
高橋さんは悲惨な戦争マラリアを広く伝えなければと考え、「ハテルマシキナ朗読会」という団体を発足。高橋さんが代表、妻の幸江さん(71)が事務局長になり、知人の協力も得て朗読が2021年6月に松本市で実現した。音楽も使いながら、メンバーが代わる代わる朗読して全文を紹介した。観客から「沖縄について勉強できた」「感動し、平和を考えさせられた」などの感想が寄せられた。
高橋さんは22年8月、安曇野市の公民館で詩を基に平和を考える講座も開いた。学校での講演も引き受けている。
高橋さんは「戦争で亡くなった人それぞれに、その後の将来があった。戦争は突然それを奪った。戦争マラリアを知らせるだけでなく、平和な社会のため、すべきことを考えるきっかけになるよう伝えたい」と話す。
波照間島民30%死亡
熱帯と亜熱帯地域に多いマラリアは、原虫を保有する蚊に刺されることで人に感染する。世界的に現在、重大な問題になっている。大小32の島からなる八重山列島も亜熱帯気候で、古くから悩まされてきた。波照間島など発生が無い島と、西表島など有る島があった。
犠牲者を追悼する平和祈念誌「悲しみをのり越えて」(沖縄県発行)によると、戦争中に死亡したのは3647人に上り、うち強制疎開で亡くなったのは3075人。最悪は波照間島で、西表島に渡った島民1590人のうち30%の477人が犠牲になり、全滅した家族もあるなど悲惨を極めた。感染防止対策の結果、1962年に八重山列島から根絶された。
遺族らは89年、国に個人補償を求める運動を起こしたが、法令が対象とする軍人や軍属、一般国民の戦闘参加者ではないなどの理由で認められなかった。6年間の活動で実現したのは慰霊碑建立や祈念館建設、祈念誌編集などにとどまった。
ハテルマシキナのあらすじ
波照間島に1945年2月、素性の知れない青年が突然現れ、波照間国民学校の教員となった。3月のある日、敵の上陸に備えて島民全員は西表島へ疎開するよう命令。島民はマラリア感染を恐れたが、軍の指示だと軍刀で脅され、応じざるを得なかった。
やがてマラリア患者が続出。高熱に苦しみ次々と命を落とした。識名信升校長は小舟で島を抜け出し、石垣島の将校に惨状を訴えると8月から帰島が許された。識名校長はこの悲劇を記録するため、疎開地の岩に「忘勿石(わすれないし) ハテルマ シキナ」と彫った。
帰島後も患者発生は収まらず、食料も枯渇。弔いの日々が続いたが、46年1月に医師と薬が島外から提供されるようになると終息へ向かい、復興が始まった。