国家安全保障の原点は「国家と国民の安全」である。それ以外のものに軸足を置くことは許されない。政府の権力は、主権者である国民から信託されたものである。国家安全保障における過ちは、数百万人の国民の命にかかわる。その被害の大きさは津波や地震の比ではない。
総理大臣は、その椅子に座った瞬間から、その重圧に耐えなくてはならない。両肩の肉にギリギリと「責任」の2文字が食い込む。亡くなった安倍晋三元首相は現職時代、常に自衛隊最高指揮官の責任を忘れぬよう、「五金桜星」を埋め込んだ漆黒の指揮棒を執務室の机上に置いておられた。安倍氏は時折、自衛隊幹部に真顔で質問されていた。「勝てるのですか」「自衛隊員は何人戦死するのですか」と。それが為政者のあるべき姿である。
憲法9条も、非核三原則も、日米同盟も、みな、国民の平和な暮らしを守る道具にすぎない。そこを誤ると戦前のような憲法9条国体論になる。
軍国日本の時代、大日本帝国は国体護持を掲げて無謀な戦争をし、国家を崩落させた。そのあげく300万同胞が命を落とした。日米開戦に反対だった昭和天皇の御宸襟(ごしんきん=陛下の御心)をどれほど悩ませたことだろうか。
戦後日本の平和主義は、敗戦直後の赤心の平和主義だけではない。「2つの異物」が混入している。
1つが、ロシア(当時ソ連)に唆(そそのか)された「非武装中立」である。米国との絆を断ち切り、最低限の軍備で我慢しろというのは、ウクライナ侵攻当初、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に要求していた内容と同じである。それはロシアの利益であった。
もう1つが、高度経済成長時代に政府与党の一部から出てきた「鼓腹撃壌(こふくげきじょう=太平で安楽な生活を喜び楽しむさま)型の平和主義」である。吉田茂、岸信介という激動の昭和前期を生き抜いた宰相が、戦後、直ちに西側にかじを切ったとき、国内は「全面講和論」「日米安保反対」で大きく揺れた。
それに懲りて、「安全保障は米国に任せておけばよい。日本は経済成長に専念すればよい」という都合の良い議論が囁(ささや)かれるようになった。経済界も同様であった。日本はあたかも中立国であるかのような幻想が広がった。
今、「台湾有事」の暗雲が垂れ込める。国家、国民の安全こそ、政府の一丁目一番地である。日本がアジアの大民族であり得たのは、誰にも寄りかからず領地と民を守り抜いた「武士の魂」があったからである。天災の多いこの国で、日本人は誰にも寄りかからずに懸命に生きてきた気高い国民である。「自分の国は自分たちで守る」。それが原点である。当たり前のことである。
■兼原信克(かねはら・のぶかつ) 1959年、山口県生まれ。81年に東大法学部を卒業し、外務省入省。北米局日米安全保障条約課長、総合外交政策局総務課長、国際法局長などを歴任。第2次安倍晋三政権で、内閣官房副長官補(外政担当)、国家安全保障局次長を務める。19年退官。現在、同志社大学特別客員教授。15年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受勲。著書・共著に『戦略外交原論』(日本経済新聞出版)、『安全保障戦略』(同)、『歴史の教訓』(新潮新書)、『日本の対中大戦略』(PHP新書)、『国難に立ち向かう新国防論』(ビジネス社)など。