阪神大震災は17日で発生から28年を迎える。長い歳月は街の復興を成し遂げる一方、震災の記憶を少しずつ薄れさせてきた。被災者の高齢化が進み、震災を知らない世代は増えるが、神戸の街にはあの日の記憶を変わらずに伝えるモニュメントが残る。震災の後に生まれた記者たちが、そんな「無言の語り部」を訪ねた。
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大きな広場に、さまざまな遊具。きれいに整備された敷地を子供たちが元気に走り回る。神戸市長田区のJR新長田駅北側に広がる水笠通公園は、近隣住民が集う憩いの場だ。その隅にたたずむ2つの石碑。「新長田駅北地区 震災復興の碑」と「水笠通二丁目の碑」が、今の公園の姿からは想像もつかない阪神大震災の記憶を今に伝えている。
「これらの記念碑は震災の記録と教訓を残し、ここに多くの人たち住んでいた『証し』です」。まちづくり協議会会長として、新長田駅北地区の区画整理事業に携わった野村勝さん(84)は、こう力説する。
公園がある長田区水笠通2丁目はかつて、約200世帯が暮らす住宅密集地だった。高齢化は進んでいたものの住民同士のつながりが強く、活気にあふれていた。
それが28年前のあの日、一変した。ほとんどの住宅が戦前に建てられた木造で、大規模な地震を想定した補強工事なども施されていなかったという。
割れた復興計画案
当時、神戸市消防局の消防士だった野村さんは、「誰も家が崩れるような地震が起こるとは、想像もしていなかった」と振り返る。多くの家が崩壊し、その下敷きになるなどして数人が亡くなった。
復興の道のりは険しかった。神戸市は震災後、対象地区ごとに区画整理を進めたが、新長田駅北地区はその中でも最大規模。借家などの権利関係の複雑さもあり、事業は難航した。
市は水笠通2丁目を子供たちが遊べる公園に整備することを決めたが、コミュニティーを元に戻し、この地域に住み続けることを望む住民も多かった。
野村さんらが間に立って協議を重ね、最終的に住民側は公園案に賛成。震災当時、各地で相次いだ火災の対応に追われた野村さんの意見で、園内に「せせらぎ」を整備した。防災備品の保管庫も置き、地域の防災拠点の役割も持たせた。
平成21年3月。公園の完成を祝って行われたセレモニーで、2つの石碑も披露された。企業などからの寄付金約270万円で建立された「震災復興の碑」には、震災の発生日時や復興の歩みが記され、住民有志が建てた「水笠通二丁目の碑」には、かつての住宅地図が刻まれている。
震災に気づかないのは復興の証
震災からおよそ30年、公園の完成からも10年以上が経過した。新たな住民が増え、広くきれいな公園には地区外から訪れる家族連れも珍しくない。
「この場所が大きな被害を受けていたとは知りませんでした」。1月12日、1歳の息子と遊びに来ていた女性(33)はこう話し、「きれいな公園ができてありがたいですね」と感謝した。
今を生きる人が、震災に気づかない。それこそが、野村さんらのような多くの人の努力によって、復興が進んできた証しでもある。
しかし、あの日の記憶は決して忘れてはならない。「公園に2つの碑が残ったことで、震災の教訓をふと思い出せる。震災を体験していない人たちも、次に来る災害への備えができているか、考えるきっかけになるはずだ」。野村さんはそう言うと、石碑にそっと手をやった。(喜田あゆみ)
【無言の語り部】は震災後生まれの記者が担当しました
隠れた思い伝えたい(弓場珠希 平成10年、奈良県生まれ)
大学で防災を学んでいたため、神戸には何度も足を運んだ。授業の一環として小学生とともに、いざというときの備えについて考える機会も多かったが、震災の記憶をつなげることの難しさを感じていた。私自身もそうだが、震災を知らない世代が増え、震災を直接経験し、それを語り継ぐ人は減っている。受け入れざるを得ない現実だが、今回の取材で、当時の記憶が詰まったモニュメントが残っていることと、その意義を知った。残された一つ一つにあの日の経験や残そうとした人の思いが隠されている。それを掘り起こすことが記者としての使命だと、胸に刻みたい。
震災を知るきっかけ(喜田あゆみ 平成11年、大阪府生まれ)
「被災者から話を聞いて発信し、記事に残す報道の役割は重要なんですよ」。取材後にかけられた言葉が忘れられない。思えば、阪神大震災を体験していない私にとって震災を知るきっかけは報道だった。取材を通して、それぞれに体験者の教訓が刻まれていることを知り、それらを無駄にしてはならないと痛感した。自然災害はいつ起こるか分からず、震災を知らない若者もたった今、当事者になるかもしれない。伝え続けることで一人一人が備えを考えるきっかけになればと願う。