宇宙飛行士・山崎直子さん、仲間の事故死で揺れ動いた心…支えた高校恩師からの「詩」

日本人女性史上2人目の宇宙飛行士で、2010年に国際宇宙ステーション(ISS)での短期滞在も経験した山崎直子さん(52)。そもそも、なぜ宇宙に関心を持ち、どんな中高生時代を過ごしたのだろう。(読売中高生新聞編集室)
きっかけは「宇宙戦艦ヤマト」

「4~5歳の頃、3歳上の兄とのチャンネル争いに負けて、『宇宙戦艦ヤマト』を一緒に見ていたことが、きっかけです。内容を深く追えていたわけではありませんが、主人公たちが地球を守るために宇宙で戦っているというエッセンスは理解できて、気が付いたら私の方がのめり込んでいました。
さらに宇宙への興味をそそられたのは、父の転勤で札幌に住んでいた小学2年の時。PTAの方が開いてくれた『星を 観 (み)る会』に参加したことでした。天体望遠鏡をのぞくと、土星の輪も月のクレーターもはっきり見えて、子どもながらに感動しました。その後すぐに、生まれ育った千葉県松戸市に引っ越したのですが、自宅近くにプラネタリウムがあって、兄と一緒に通いました。星座にまつわる神話の解説なんかをワクワクしながら聞いてましたね」
宇宙への憧れは膨らむ一方だったが、中学時代には、まだ宇宙飛行士になる将来はイメージすらできなかったという。
「今なら、どうすれば宇宙飛行士になれるのか、スマホで検索するのでしょうが、当時はスマホはおろか、インターネットさえありません。そもそも、日本人は誰一人として宇宙に行ったことがない時代です。
当時の憧れは理科の先生。とにかく授業が面白くて、『北極星の光が地球に届くまでには400年以上かかるから、あなたたちが見ている光は豊臣秀吉が天下統一を果たす前のもの』とか色々教えてくれました。覚えているのは結局、宇宙に関する話ばかりなんですけど(笑)。
今思えば、やっぱり宇宙のことで頭がいっぱいだったんでしょうね。開業間もない東京ディズニーランドに行って、アトラクションのスペース・マウンテンに乗ったときは、『将来はここで働こう』って本気で考えました。制服が宇宙服みたいでかっこよくて、この仕事に就けば、ちょっとでも宇宙に近づけるように思えたからです」

日本人も宇宙に

1985年、中学3年になった山崎さんに転機が訪れる。アメリカの宇宙船・スペースシャトルに搭乗する宇宙飛行士の候補に日本人3人が初めて選ばれたのだ。
「このニュースを知った時は『ついに日本人も宇宙に行けるんだ!』と、とてもうれしくて、心が躍りました。
私自身も、この頃には漠然と宇宙開発に携わりたいと考えるようになっていました。宇宙船をつくる技術者になって、人類が宇宙へ出て行くのをサポートしたいなって。とはいえ、まだエンジニアという言葉すら知らなくて、頭の中は『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』のようなSFの世界のままでした。
それでも、日本から宇宙飛行士の候補が誕生したことは大きくて、憧れ続けた宇宙がグッと身近に感じられるようになりました。チャンスがあれば宇宙飛行士になりたいと本気で考え始めたのもこの頃でした」
高校入学前に衝撃的な宇宙船事故が起きたことをきっかけに、ある決意を固める。
「高校受験を目前に控えた1986年1月、アメリカのスペースシャトル『チャレンジャー号』の事故が起きました。深夜に勉強しながらテレビを眺めていると、生中継が始まったのに、すぐ別の映像に切り替わってしまって……。どうしたのかな、と気になりながらも、その夜は寝てしまいました。
翌朝のニュースで、打ち上げに失敗して機体は爆発、搭乗していた宇宙飛行士全員が犠牲になったと知りました。中には現役の教師だった女性飛行士もいて、教師にも憧れていた私は大きなショックを受けました。彼女が搭乗前、『宇宙から授業をしたい』と言っていたのも知っていました。
ひどい事故が起きたことで、ロケット技術の安全性が、まだ十分に完成されたものでないことを思い知らされました。もっと安全な宇宙船をつくって、宇宙開発に貢献したい。この事故をきっかけに、目指すべき方向性が見えてきました」

バニラ頼んだのに「バナナ」……タフになれた留学

高校は名門・お茶の水女子大付属高(東京)に入り、“リケジョ”の道を突き進む。
「高校では物理や数学の面白さに目覚めますが、それ以上にありがたかったのは、周囲の環境です。
学年(120人)の半分くらいが理系でした。当時はまだ、今のように男女平等に対する意識が高くなかったので、世間一般には、『女子なのに理系?』という雰囲気も残っていました。でも、私の学校は全く違っていたんです。自主性を重んじる校風もあって、先輩も友人も、当たり前のように理系の大学や学部を目指していました。
ただ、いくら心の中で『将来は宇宙船をつくりたい』と思っていても、お手本になるような存在は身近にいませんでした。どうすれば夢に近づけるのか、まだわからないことも多く、不安もありました」
それでも、宇宙への強い思いを原動力に東大に合格。大学院時代には、アメリカに留学して最先端の研究にも触れた。
「アメリカ留学は中学時代からの夢でした。もちろん宇宙分野で最先端の国ということもありますが、中学生の頃、オハイオ州の女の子と文通していて、それが楽しくて仕方なかったんです。彼女が自宅の写真を送ってくれたことがあって、庭が広くて、まるで映画の世界だと感激したのを覚えています。やりとりを重ねるごとに、自分の世界がどんどん広がっていくようで、いつも返事が待ち遠しかったですね。
ただ、実際に留学したときは、自分の英語が全然通じなくて、かなり苦労しました。お店でバニラアイスを頼んでも、バナナ味が出てきたり、電話で電気の契約すらできなかったり……。なりふり構わず英語を使って、どうにか通じるようにはなりましたが、この経験で精神的にかなりタフになった気がします。
おかげで、宇宙飛行士になってからも、大抵のことは乗り越えられました」
そんな山崎さんだが、胸が張り裂けるようなつらい経験も味わっている。2003年、一度に7人の同僚を失った宇宙船事故だ。
「2003年に起きたスペースシャトル『コロンビア号』の事故は、今でも頭から離れない出来事です。犠牲になった7人は一緒に訓練を受けたこともある同僚でした。中には親しかった飛行士もいます。それだけに、ひょっとしたら自分が事故に遭っていたかもしれないという思いも頭をよぎりました。当時、私は長女が生まれたばかりで育児休業中でしたが、娘のことを思うと、遺族の悲しみが痛いほど伝わりました。事故に接して、現役を退いてしまう同僚もいて、私もかなり動揺しました」
今を全力で楽しんで

このとき、心の支えになったのが、高校時代に先生から教えてもらった一編の詩だったという。
「当時、心の中でいつも唱えていたのが、アメリカの神学者・ニーバーの詩の一節です。高3の担任の先生から教わったものでした。〈変えられることは変えて、変えられないことは受け入れる。その二つを見極める知恵を授けてください〉。そんな内容で、最初に聞いたときは、あまりピンときませんでしたが、なんだか気になって、ずっと頭に残っていました。

この詩を覚えていたおかげで、自分にとって『変えられること』と『変えられないこと』をもう一度見つめ直すことができました。振り返ってみれば、子どもの頃から『宇宙に行きたい』という思いだけは、ずっと変わらなかった。だから、そこは受け入れるべきだと。そして、今自分がやるべきは、目の前の訓練に集中して、いつミッションが与えられても宇宙に行けるように準備することだ、と考えました。そこからは、だんだんと前向きな気分になれて、心の迷いも消えていきました」
中高生時代に部活動などを通じて、仲間からいろいろ意見を聞き、“調整役”を務めた経験も、宇宙飛行士になってから大いに役立った。
「中学の英語弁論部や高校のジャズダンス同好会では、リーダーとメンバーの間に入って、お互いの意見を調整する役回りが多くて、チームとして何かを成し遂げることの大変さを学びました。
高校の学園祭でダンスの出し物を企画したときは、リーダーとメンバーの板挟みになりながら、ひたすら両方の話を聞きました。メンバーたちが『練習が厳しすぎる』と言えば、リーダーに少し練習内容を見直すように提案したり、反対にリーダーが『こんなチームはまとめられない』とこぼせば、メンバーにリーダーの苦労を説明したり……。最後は、みんなわかり合えて、良い出し物を披露することができました。
こうした経験は、宇宙飛行士になって様々な立場の人たちと大きな目標を共有し、チームを組んだときに、とても役立ちました。中高生のみなさんも、つらいと感じる目の前のことが、将来に生きてくることもあるので、今を全力で楽しんでほしいですね」
(聞き手 スタッブ・シンシア由美子)
プロフィル
1970年12月27日生まれ、千葉県松戸市出身。東大大学院修了後、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構= JAXA (ジャクサ))に採用された。2010年4月、日本人女性2人目の宇宙飛行士として、国際宇宙ステーション(ISS)に滞在。11年にJAXAを退職し、現在は国の宇宙政策委員のほか、宇宙ビジネスの活性化を後押しする一般社団法人「スペースポートジャパン」(東京)の代表理事を務める。