「日本で最も美しい村」とも言われた福島県飯舘村は、2011年3月の東京電力福島第1原発事故による放射性物質で汚染し、全村避難となった。元村職員の男性は、質素ながらも自然豊かな故郷に思いを寄せつつ福島市で避難生活を続ける。「帰りたいが、帰れない。でも、村民はやめない」。間もなく事故から12年となる。
飯舘村は、原発から北西へ約30~50キロ離れた高原の村。元村役場職員の菅野哲(ひろし)さん(74)に原発から最も遠くで避難区域となった村の歩みを振り返ってもらった。
「経済的に豊かとは言えず、3~5年に1回は冷害や大雪に見舞われる厳しい気候」と説明する。だが、「自然環境がよく、山菜やキノコ類が豊富で半年は食べられた。赤トンボが飛び交う夕日が美しく、楽しく生きられた。近隣の人たちが助け合うコミュニティーが維持され、安心できた」。11年1月時点で人口6152人、世帯数1715。入植は数世代前から近年までさまざまだった。
菅野さんは戦後の入植者の長男。1969年、村役場職員となり、農地の売買・貸借の許可担当の農業委員会などに配属された。09年に定年退職し、本格的に農業を始めた。2年後の11年3月11日、事故が起きた。
心配して村役場に電話したのは、西風から、原発方向から吹いてくる東風に変わった15日ごろ。知人の話から、汚染の深刻さを察し「大変だと思った」。記録では15日午後6時20分、役場近くの放射線は毎時44・7マイクロシーベルトを観測。24時間浴びたら一般人の年間被ばく限度の1ミリシーベルトを超える線量だった。
事故前、政府が防災対象としていたのは原発の半径約10キロ。だが、いざ事故が起きてみると、原発から約30~50キロ離れた飯舘村も全村避難となった。
避難先で農地確保に奔走
11年5月、妻と要介護の母(当時85歳)と福島市に避難した。社会福祉活動のNPOが避難者支援をしており「お手伝い」で仮設住宅を回った。避難者の声を聞くと「何もすることがない」「野菜や花を作りたい」のが悩みだった。ふさぎ込んでいる人もいた。事故前は農業、家畜の世話をして、山野の恵みで食卓を彩る日常だったのだ。
農地確保に奔走した。福島市農業委員会に「耕作放棄地を管理するから、貸してほしい」とかけあった。次第に広い土地を借り受けることに成功した。
30~40人の村民が各地から集まった。「樹木を伐採し、畑にしていった」。作物は白菜、ネギ、ダイコン、ソバなど。笑顔が戻った。今も1・8ヘクタールを約15人が耕している。
「本当のこと」言えない空気
避難する村民には今後の生活の見通しが大きな関心事だった。原子力の専門家から説明を受けていたため、見通しを村民に伝えた。「2年や3年では村に帰れない。少なくとも5年、10年はかかるようだ」
11年9月ごろ、「あなたは仮設住宅立ち入り禁止です」と仮設を管理する村関係者から告げられた。短期で帰村できないと話したことが問題にされたのだという。実際に村の避難指示が解除されたのは事故6年後の17年3月末。汚染の激しい一部地域は今も解除されていない。「放射性物質は危険だが、原発事故で本当のことが言えなくなる状況も怖い」と眉をひそめる。
菅野さんは「長期間の避難が、家族分断を生んだ」とも言う。7割の村民が借り上げ住宅に入った。一方、3割が仮設住宅へ、うち6割以上が高齢者だった。ここで3~4世代が一緒に住むのが普通だった飯舘村の家庭がばらばらになった。村の住宅の多くは6、7間あったが、仮設住宅は2間か3間。「おじいちゃん、おばあちゃんは孫と一緒に住めなくなった。原因は原発事故だ」と憤る。
被害は、家族やコミュニティーの崩壊だけではなかった。
京都大複合原子力科学研究所の今中哲二研究員によると、福島県の市町村で住民の被ばく量が多いのは、原発の立地町ではなく、飯舘村だったことが、県公表「外部被ばく線量推計結果」で分かる。今中さんや広島大の研究者らが村民1812人分の行動を聞き取ると、事故後約10日以降に村内に戻った人々がいた。政府が飯舘村を「計画的避難区域」(1カ月以内に避難)としたのは、立地町などへの避難指示よりも約40日遅い4月22日だった。
今中さんは「避難指示の遅れや、帰村の動きがなければ、被ばくは緩和できた」とみる。菅野さんは「避難区域に指定されたころ既に他の市町村の住民が避難を完了していた。このため、家族で避難する条件に合う借家などが見つからなかった」とも指摘する。
農の可能性探り「村民はやめない」
21年8月の時点で飯舘村の約8割は除染されていない。野生の山菜やキノコは手をつけられない。村の23年1月時点の帰還者は、12年前人口の2割。菅野さんも福島市に住み、借りた土地で農業を続ける。避難の理由の多くは「生業のめどが立たないこと、放射性物質汚染の存在などがある」。
ただ、菅野さんは村民であることをやめたわけではない。村内の除染された土地などで日本大の研究者の協力を得て試験栽培農場を運営。エネルギー用作物の陸稲などを作っている。
政府は事故後、全国の原発を対象に避難計画を要する緊急防護措置区域(UPZ)を30キロ圏内とした。飯舘村は大半がその外に位置する。
「原発事故となったら、避難は簡単ではない。次の世代につなぐためにも恐ろしさを伝えていきたい」と力を込めた。【大島秀利】