東日本大震災の発生から12年を迎える11日、津波被害などで16人の死者・行方不明者が出た千葉県旭市では慰霊碑前に献花台が設置され、発生時刻には防災行政無線で黙(もくとう)を呼びかける。記憶を風化させず、次の自然災害が起こっても被害を少なくできるようにと、地道な活動が続けられている。
中学3年生として迎えたその日。「震源は東北だから、津波は来ない」と思っていたが、自宅の目の前に大量の水が押し寄せて来る様子を目撃した。「このまま取り残されて死ぬのかも」。波は引いて無事だったが、あの光景が原点になった。
旭市の震災記憶を後の世代に伝える有志団体「トリプルアイプロジェクト」。大木沙織さん(27)はその代表を務めている。
衝撃的な経験をした大木さんだが、その後は徐々に、当時の話をする機会が減り、思い返すことも少なくなっていったという。転機になったのは大学生の時、東北の被災地を訪れ、ボランティア活動などをしたことだ。「旭のために何もしなくてよいのか」と強く感じたという。また、岩手県遠野市で出会った高齢男性に「本当の復興は心の復興」、「被災地に若者の力が必要」と言われたことにも後押しされ、トリプルアイプロジェクトを設立した。
それ以降、休止期間もあったが、市内の小学生に防災パンフレットを配布したり、防災教室を行ったりしてきた。メンバーは中学校の同級生が中心で、それぞれの仕事をしながら活動を続けている。
昨年開いた防災教室で関わった小学4年生は、震災が起きたときはまだ、生まれていなかった。これからは、経験していない世代が増えていく。記憶継承の在り方が変わってきていることを痛感したという。
11日からは、新たな防災パンフの作成や震災15年に向けた映像制作のため、インターネットで不特定多数から資金を募るクラウドファンディングを実施。「途切れさせない」ことを目標にしている。
「震災の記憶を忘れないことも大切だが、次に震災が起きたら、自分の命を自分で守る行動ができるように伝えていきたい」。その思いを持ち続けている。
「まだ12年。忘れることはない」と話すのは、市総務課職員班長の江戸義尚さん(51)。現在は人事などを担当しているが、当時の所属は同課交通防災班だった。
たまたま「防災無線の戸別受信機の調子が悪い」という市民の家で対応していたとき、震災が発生。大学時代、大阪で阪神淡路大震災を経験したが、それ以上に揺れ、津波警報も初めて聞いたという。急いで市役所に戻ると、そこからは電話対応などに追われ、3日間ほどは不眠不休で対応した。
同班は災害対策本部の事務局となり、避難所の問い合わせ対応や物資の分配などの作業を行った。約2カ月間は2日に1回、市役所での泊まり勤務。午前2時ごろまで業務が続くこともあり、市役所の床で1~2時間仮眠をとるという日々だった。「家族が無事だったことも大きいかもしれない。やるしかないと思った」と当時を振り返る。 津波によるがれきの仮置き場を決めると、その地域の住民から苦情が来た。防災無線をすぐに流す必要に迫られ、上司に確認せずに流す判断を下すなど、苦労も多かった。平成28年度まで防災を担当。津波避難タワーを4基設置し、津波避難訓練を実施するなどの防災対策に尽力した。
震災発生前、「九十九里浜は遠浅で津波はこないだろう」という認識を多くの市民が共有していたとみられる。今は津波避難計画に基づき、津波警報が出た際の対応が決められているが、当時は避難に関する明確な基準さえなかったという。「避難さえしてもらえば行政で対応できる」と語り、「次の災害」の被害最小化に向け、決意を新たにした。(前島沙紀)