サイパン島で戦死した父の遺品、約80年ぶりに遺族のもとに きっかけは1通のメール

太平洋戦争末期、サイパン島で戦死した父の最期を知りたい…。そう願う遺族のもとに、先日、父の遺品が手渡されました。きっかけとなったのは、名古屋大学に届いた1通のメールでした。
アメリカ人の元軍人、アダム・タウンリーさん。海兵隊員だった大叔父が戦地から持ち帰った「日章旗」を手に先週、来日しました。受け取ったのは、名古屋市内に住む男性です。 戦地へ向かう前に撮影されたとみられる、1枚の写真。当時の名古屋医科大学耳鼻咽喉科教室に所属していた中村英二さんです。 英二さんは、太平洋戦争に軍医として出征し1944年7月、サイパン島で戦死しました。
父の最期を知りたいと何度もサイパンを訪問
「死を覚悟してというよりも、また、生きて帰ってくるつもりで写真も撮ったのではと思う」(中村隆男さん) 息子の中村隆男さん、78歳。父親が出征したころは、母親のお腹の中にいました。写真の中の父親しか知りません。 「私が生まれる前に死んでいる。だから父親は当然ながら、子どもが生まれることは知ってましたけど、男の子か女の子かもわからないので、こちらもしばらくしてから、戦死したとは物心ついてから聞いた」(日章旗を受け取った 中村隆男さん) 隆男さんは、父の最期を知りたいと何度もサイパンを訪問。しかし、手がかりは見つかりませんでした。 終戦から75年以上がたち、あきらめていた隆男さんのもとに思いがけない知らせが舞い込んできました。
かすかに残る文字を頼りに連絡が
2021年4月の朝日新聞。アダム・タウンリーさんが「日章旗」を返還するため、遺族を探していると書かれた記事で、記事には手がかりとして「中村隆男さん」の名前がありました。 「知人からの連絡で朝日新聞にあなたのこと書いてあるよと連絡があった。本当に、奇跡というかびっくりした。ありがたい、びっくり」(中村隆男さん) どのようにして、戦死した英二さんの遺族が、隆男さんであると特定できたのか。 キーパーソンとなったのが、名古屋大学・耳鼻咽喉科の曾根三千彦 教授です。 2年ほど前、耳鼻咽喉科に届いた1通のメール。日章旗にかすかに残る「名古屋医科大学 耳鼻咽喉科教室」の文字を頼りに曾根教授のもとに問い合わせがあったのです。 「日の丸の国旗に寄せ書きがあったと。そこに名古屋医科大学とかいてあるから、この方がお医者様か何かだったんじゃないかというのが始まりですよね」(名古屋大学 耳鼻咽喉科 曾根三千彦 教授)
「記念誌」を読みとき調査を進める