宮城県は全国有数の水産県だ。特に養殖が盛んで、ホヤは代表的な水産物の一つである。
だが、東日本大震災が発生してからの12年間というもの、ホヤ養殖の漁師は痛めつけられてきた。津波で全てを失い、やっと再出発したところで、大事故を起こした東京電力福島第一原発の風評被害を受けた。そして今、さらなる危機に直面しようとしている。同原発が「処理水」の海洋放出を始める予定で、新たな風評被害が起きるのは必至とされているのだ。
「既に深刻なダメージを受けているのに、これ以上将来が見えなくなれば、若手の漁師はいなくなってしまう」。浜からは悲鳴が上がっている。
ホヤは三陸の海岸など冷たい海に多く生息している。養殖は宮城県以北で行われていて、東北地方ではなじみの食材だ。平安時代から食べられていたという記述も残っており、甘味・塩味・苦味・酸味・うま味の五つの味が楽しめる海産物として珍重されてきた。形が似ていることから「海のパイナップル」とも呼ばれる。宮城県は全国で最もホヤの生産量が多く、かつては8割以上を占めていた。
宮城県石巻市から太平洋に突き出た牡鹿(おしか)半島。その中ほどに深く切れ込んだ鮫浦湾はホヤ養殖では傑出した存在だ。養殖されるホヤの多くは鮫浦湾で「赤ちゃん」が生産されていて、湾内に点在する漁師集落でもそれぞれホヤ養殖が営まれている。
「震災前の10年間が最盛期でした」。寄磯浜でホヤ養殖に取り組む渡辺喜廣さん(61)は遠い目をする。寄磯浜は鮫浦湾の漁師集落の一つだ。
震災当時に100軒ほどあった寄磯浜では、約90軒が漁業に携わり、そのうち34軒がホヤ養殖を行っていた。
「韓国への輸出が始まって生産が増え、県内で生産されたホヤは7~8割が輸出に回されていたのです。韓国の人は活魚が大好きだそうで、水槽で生かしたまま山口県の下関港から船で運ばれていました」と渡辺さんは話す。
活況を呈していたホヤ養殖の運命を一転させた3・11
だが、浜の運命は一転した。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。
震源は牡鹿半島から約130kmの沖合だった。「とんでもない揺れで、津波は必ず来ると思いました」と渡辺さんは振り返る。ちょうど自宅にいたので、家族を連れて海抜40mの高台にある寄磯小学校へ逃げた。
「高さ25mもの津波が押し寄せました」。海抜10mほどの場所にあった自宅は、海に根こそぎ持ち去られた。命は助かったものの、「手許には着ていた服しか残りませんでした」。 寄磯浜では地区の3割に当たる約30軒が流出した。
同じホヤの養殖漁師、遠藤謙市さん(53)は港に面した漁協支所にいた。海抜50mほどの場所にあった自宅へ急いで戻る。寄磯浜では急勾配の山肌や谷にへばりつくようにして建てられた家が多く、遠藤さん宅もそうだった。家を支える石垣が壊れ、基礎が揺らいではいたものの、家族は無事だった。すぐに港へ引き返して、船で沖へ出た。
津波の来襲時、港に船を係留していたら、波に呑まれて転覆するなどしてしまう。このため沖合に出すのが漁師の常識だ。遠藤さんは「沖では津波が壁のようにならず、海面が盛り上がって、また下がるような感じでした」と話す。
ただ、出航にはリスクも伴う。遅れると押し寄せる波や、港内で巻く渦に抗えない。寄磯浜でも命を落とした漁師がいた。
寄磯浜全体では逃げ遅れも含めて13人が犠牲になった。
避難した漁師が上陸できたのは翌日だった。そして目にしたのは――
漁業施設や倉庫は一瞬のうちに瓦礫と化して海に流れ込み、港は漁船が航行できるような状態ではなくなった。岸壁は沈下し、満潮時には腰の高さまで浸かる。防潮堤も倒れて、太平洋の荒波が直接岸に押し寄せることもあった。
このため、沖合へ避難した漁船は岸壁に近づけなくなった。
遠藤さんは「寄磯浜の船はまとまって停泊していました。陸上と携帯電話がつながらず、浜がどうなっているか分かりません。家族のことも気になります。漁船に小型船を曳航して逃げた漁師がいたので、小さい船なら近づけるかしれないと、1日経ってから仲間と陸へ向かいました。なんとか瓦礫を避けて上陸することができましたが、私が自分の船で瓦礫のない場所を選びながら港に戻れたのはその翌日でした」と話す。
100隻ほどあった漁船は30隻ほど助かったろうか。
寄磯浜の人々がまず取り組んだのは、瓦礫の撤去だ。東北から北関東にかけての太平洋岸では、浜という浜が被災し、行政による瓦礫撤去は期待できなかった。工事業者が足りないからだ。しかし、早く漁を再開させなければ収入がない。多くの浜では漁師自身が瓦礫撤去を行った。
沖の養殖イカダはぐじゃぐじゃになり、まだ使えるブイを取り外して回収することしかできなかった。
何カ月もかけて、港内の瓦礫を引き揚げては処分した。イカダも一つ一つ手作りしなければならない。ボランティアが手伝いに来てくれた。養殖を再開できたのはその後だ。ただし、ホヤではなくホタテからだった。
なぜホヤではなくホタテから養殖を再開したのか
ホヤは育てるのに時間がかかり、すぐには再開できなかったのだ。ホヤの養殖はまず海に生息している幼生を採苗しなければならない。適地とされていたのは鮫浦湾でも最湾奥の谷川浜だ。津波の波高は湾奥になるほど高くなる性質があり、谷川浜の被害は鮫浦湾の漁師集落では最も酷かった。そのような状態にありながらも、港を自分達で使えるようにして、採苗し直さなければならず、しかも採苗から養殖イカダに吊るせるようになるまで育つには1年という時間も必要だった。
その点、ホタテは被害が少なかった北海道から半成貝(はんせいがい)を買っていたので、鮫浦湾内にイカダを設置できれば、すぐにでも養殖が再開できた。半成貝とは生後約1年半の小さな貝のことだ。この段階から養殖すれば、その後1年を待たずして出荷できた。
震災前はホヤが中心だった寄磯浜でも、ホヤを収穫した後のつなぎとしてホタテを養殖する漁師がいた。ホヤ養殖を行っていた34軒のうちの約15軒。渡辺さんや遠藤さんもそうだ。船を失った人もいたので、当初の作業は共同で行った。
だが、大きなハードルがあった。本格的な再開にはまとまった資金が必要で、特にホタテの養殖には費用が掛かった。
まず、船を失った漁師は新たに買わなければならない。渡辺さんは「ホヤの養殖は1.5トン程度の小型船でもできますが、ホタテは貝の重さが違うので3トンぐらいの船が必要になります。住む家も再建しなければならないのに、漁業倉庫の建設費、資材の購入費、船舶保険代なども必要で、多くの人が借金をしました」と語る。
そうして、やっとの思いで再開にこぎ着けた漁師を、今度は原発事故の風評被害が襲った。
「県外の取引先を全て失った」そう話す福島県の食品メーカー
福島第一原発の事故が収まっているかのように見えるのは、溶けた核燃料(燃料デブリ)を水で冷やし続けているからだ。水が途絶えれば、また暴走してしまう。
燃料デブリを冷却した水は放射性物質で高濃度に汚染されている。
東電は汚染された冷却水から放射性物質を取り除くために、ALPS(多核種除去設備)を導入した。だが、2013年4月に地下貯水槽から汚染水漏れしていたと分かり、同年8月には地上タンクから300トンもの高濃度汚染水が漏出していたことが発覚した。これを契機として風評被害が拡大し、福島県内では「県外の取引先を全て失った」と話す食品メーカーもある。
波紋は外国にも広がり、韓国政府は2013年9月、8県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物を全て輸入禁止とした。この措置は現在まで続いており、両国の関係が悪化したせいだと見ている人もいる。
寄磯浜では翌2014年、震災後に養殖を再開したホヤが初めて収穫できた。が、最大の出荷先となるはずだった韓国には出せなくなっていた。ホヤは出荷までに最低3年も掛かることから、韓国への輸出を見込んでたくさん育てていたのに、行き場を失った。
その分は国内で消費できなかったのか。
ホヤは水揚げ直後だと臭いがない。しかし、時間が経てば経つほど独特の香りがし、「通」の中にはこれが好きだという人がいるものの、好き嫌いがハッキリする。首都圏などへ出荷すると時間が掛かり、どうしても香りがしてしまうので、急に消費拡大しようとしても難しかった。
このため宮城県内では2016~18年に大量のホヤが廃棄された。「大事に育てたホヤだから、誰も処分したいなんて考えません。しかも津波からの復興はこれからという時だったのです。涙ながらでした」と遠藤さんは語る。
これを契機にホヤ養殖だけには東電から賠償金が出るようになったが、寄磯浜で生産されるホヤは「1kg当たりたったの70円でしか引き取ってもらえなくなりました。震災前はキロ当たり120~150円、高ければ200円という時もあったのに、完全な赤字です。賠償金で何とか埋め合わせをしてきたのが実情です」と渡辺さんは苦しげに語る。
賠償金も23年12月で終わる。借金を抱えた漁師たちは――
その賠償金も2023年12月で終わる。漁師の暮らしはなり立つのだろうか。津波で抱えた借金はまだ多くの漁師が完済できていないのだ。
寄磯浜の漁師が代わりに活路を見つけようと生産量を増やしたのはホタテだった。震災前はホヤの合間に取り組んでいた程度だったが、逆に力を入れた。「ホタテはホヤのような水揚後の香りの変化が乏しく、全国どこでも好まれる」(遠藤さん)というのも理由だった。
ただし、ホヤからホタテへの転換は簡単ではなかった。渡辺さんは「まず船を大きくしなければならないので、経費が掛かります。さらに半成貝を北海道から買うのに1000万円単位の資金も必要です。イカダに吊るすために殼へ穴を開ける機械や、出荷時に殼についたフジツボなどを掃除する機械もそろえなければならず、これらは何百万円もします。さらに殼に穴を開けた後にピンを差し、ロープに取り付ける作業を人の手で行うので、人を雇えば人件費も掛かる。家族経営でできるホヤ養殖とはかなり違い、おいそれとホタテ養殖に転換できるわけではないのです」と説明する。
それでもホタテは価格が安定していて、一定の収入に結びついてきた。ところが、この3年ほどで風向きが変わり、半成貝がどんどん値上がりを始めた。
背景にあるのはホタテの海外輸出の増加だ。2022年の全国輸出量は前年比で42.4%も伸びた。特に半成貝は韓国への輸出が増えているという。養殖用ではなく、食べるのだ。
「その煽りで私達が買う養殖用の半成貝も3割ほど値上がりしました」と渡辺さんは漏らす。遠藤さんは「これに連動して仲買人が私達から買い取る価格も上がってはいるのですが、スーパーなどでの値段も上昇していて、もうこれ以上に値上がりすると売れなくなるのではないかと冷や冷やしています」と話す。
こうしてホヤもホタテも極めて厳しい状況に追い詰められた。
そんな時に始まろうとしているのが、東電福島第一原発からの「処理水」放出だ。
あの大量のタンクの映像を見た人が平気でいられるのか
東電は燃料デブリの冷却に使った水を、ALPSで処理してタンクに貯めてきたが、「廃炉作業のための敷地の確保が必要で、これ以上タンクを増やすことはできない」としている。ALPSは「多核種除去設備」とは言うものの、放射性物質のトリチウムを除去できない。政府と東電は「トリチウムは水素の仲間で、そもそも飲み水や食べ物、人間の身体に含まれている。海水で薄めて放出するので安全」などとしている。
一方、宮城県の漁師の集まりである宮城県漁協(寺沢春彦組合長)は放出に反対していて、全漁連も反対を貫いている。
宮城県では、県庁の主導で様々な団体が集まった「処理水の取扱いに関する宮城県連携会議」も反対の立場だ。
しかし、原発では放出のための設備工事がどんどん進んでいて、政府は「春から夏頃」には海洋放出を始めるとしている。一度放出が始まれば廃炉作業が終わるまで続く。
渡辺さんは「風評被害は100%起きる。誰が考えても分かる」と言い切る。
遠藤さんは「政府や東電は『トリチウムは他の原発でも海などに流している』と言っていますが、それは事故を起こしていない原発でのことであって、あの大量のタンクの映像を見せられてきた人々が平気でいられるかどうか。そもそも政府・東電は国民に信用されていません」と不安を口にする。
渡辺さんは「考えられるシナリオ」として、「処理水の放出後、韓国が北海道産のホタテまで買わなくならないでしょうか。そうなったら、我々が仕入れる半成貝の値段は下がるかもしれませんが、ホタテそのものの価格が暴落してしまう」と危機感をあらわにする。
漁業が振るわなければ、漁師町の元気は出ない。
震災時に100軒ほどあった寄磯浜の戸数は70軒ほどに減った。「漁に見切りをつけて出て行った人もいます」と遠藤さん。このためホヤの養殖を行う漁師は21軒、そのうちホタテも養殖している漁師は8軒に減少した。
そのうち30代、20代の漁師はそれぞれ数人ずつしかいない。「今でさえ先が見えないのに、処理水の放出でさらに不透明になったら、誰が漁師になろうと思いますか」。そう話す遠藤さんの息子は漁師を継がなかった。このままでは遠藤さんの代で終りだ。
「東電が全てを変えた」。渡辺さんはうめくように言った。
「ご遺体が横たわっているすぐそばを…」12年前、津波ですべてを失った宮城県漁協組合長を悩ませる新たな“風評被害” へ続く
(葉上 太郎)