救護開始直後に福島県外へ撤退命令、耳に残る「逃げるのか」の声…日赤が乗り越えた苦い教訓

日本赤十字社にとって、東日本大震災では原子力災害に対応ができなかった反省と教訓が残る。全国から救護班が集められたが、福島第一原発1号機の水素爆発を受け、福島県外への撤退を決めた。背景には、放射線の知識不足や活動基準の欠如があった。救護班の一員だった渡部洋一医師(日本赤十字社理事、医療事業推進本部長)は「被災者には『俺たちを残して逃げるのか』と言われた。その声が忘れられない」と語る。(堀和彦)
渡部医師はあの日、福島赤十字病院(福島市)の副院長として外来に対応していた。翌日6人の救護班を組んで浜通りに入ったが、通信状態が悪く、唯一の手段が公衆電話という過酷な環境下だった。撤退命令を受けたのは、相馬市の救護所で活動を始めてわずか2時間後。被災者たちに「3日間はいます」と約束した直後のことだった。「逃げ出した」との批判を浴び、後ろ髪を引かれる思いで川俣町に向かった。
県内に入った他県の救護班も、 被曝 (ひばく)の懸念から次々と帰還した。発災直後の混乱期にもかかわらず、県外からの応援はストップし、福島赤十字病院のスタッフたちの孤軍奮闘が続いた。「どうして福島に来てくれないんだ。赤十字の使命とは何なんだ」。疑問を抱かざるを得なかった。

日本赤十字社は2015年、震災の教訓から原子力災害下での活動指針となるガイドラインを策定。警戒区域などの外で活動することや、救護活動中の累積被曝線量の上限を1ミリ・シーベルトとするなど基準を決めた。
渡部さんはオブザーバーとして策定に関わり、「基準によって、原子力災害下でも救護活動ができるようになったのは非常にうれしいこと」と評価する。救護に携わる人材育成のための研修会も重ね、過去の反省を生かそうと努めてきた。
20年2月、渡部さんに1本の電話が入った。「『ダイヤモンド・プリンセス号』に行ってくれないか」。横浜港に向かっていたクルーズ船で起きた新型コロナウイルスの集団感染の応援要請だった。当時は正体不明のウイルスで、原子力災害に似たものを感じた。
渡部さんは「リスクのある救護活動に率先して手を挙げるのが赤十字だ」と考え、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として船の停泊する横浜市に向かった。船内では、防護服の着脱など原子力災害を想定した日頃からの訓練が役に立ったという。
苦い経験をした震災から12年。「数々の災害現場を経験して職員のスキルが上がり、今はしっかり対応できるようになった」と実感する。理事となった現在は現場の一線を退いたが、後を継いだ若い世代に全幅の信頼を寄せている。