片や三井銀行、片や政府、ドル買いをめぐる池田成彬と井上準之助蔵相の血みどろの決戦の真相をここに発表す。
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「三井銀行のドル買い事件」( 解説 を読む)
昭和6年9月20日、その前々日の18日に起こった満洲事変――奉天から拡大された関東軍将兵の奇怪な軍事行動――への応接に戸惑っていた日本政府は、突如イギリスの金本位停止の報を入れて大きな衝撃を受けた。いや、衝撃を受けたのでなくて反対にあるいはこれを軽視したのかも知れない。何故なれば、時の大蔵大臣井上準之助(若槻内閣)はそのイギリスに倣って当然停止せねばならなかった日本の金本位を逆に頑強に護持せんとして、いわゆるドル買事件発生の間隙を作ったからである。
ではドル買事件とは何か。今日では既に事件そのものを忘れた人も多かろうし、全く知らぬ人も少なくないであろう。これは2つの面から説明する必要がある。一つにはドル買いとして世間に喧伝された形で、そしてもう一つには経済問題としての本質について……
読者諸君は今日でもたびたび新聞やラジオでドルのヤミ買いに関する犯罪事件を御承知であろう。しかし本文にいうところの昭和6年秋のドル買い事件は、そんなヤミ商人の犯罪行為ではない。天下晴れての公然たる商行為であった。
今日でこそドルの売買――ドルに限らずおよそ総ての外国貨幣の売買――は、厳重な政府の統制下にあり、外貨を売るものも買うものも政府を相手にせねば1ドルといえどもヤミ行為即ち犯罪行為となっているが、昭和6年9月のその当時においては全くの自由、誰から買っても誰に売っても一向に差支えない自由の時代であった。いや、それよりも外貨の取引が全く自由だということこそ当時の“金本位制度”の本質的特色であった。
ところがその制度がイギリスにおいて停止され、英貨ポンドは急速に下落した。日本もそれに倣って、当然且つ必然に、外貨取引の自由を制限しなければならぬだろう、従って円貨の先行きは必ずや安いだろうとは、殆んど誰にも考えられたことであった。
そこで円貨の先安――その半面ドル貨の先高――を予想した市場人は、大蔵大臣の護持声明にも拘らず、一斉に円売りドル買いに出動した。その政府の大方針と正面から張り合ってドル買いの先登に立つたのが正に三井財閥であり、その指導者が人もあろうに池田成彬だということになった。そして三井財閥はそれによって国家の犠牲において巨利を博した怪しからんヤツだということになったのである。
当時大蔵大臣井上準之助は頑として日本の金本位停止を否定し、その護持の方針を声明しておった。そして円安を見越してのドルの思惑買いを国策の妨害となるものとして頻りに警しめた。だから当時の世間の印象からするならば、三井財閥は――従ってその総帥池田成彬は――時の政府の大方針に逆らい、国策の円滑なる遂行を妨げているということになった。三井のこの態度を快しとしない或る実業家などは「民間の代表的有力商社が時の政府の方針に正面から敵対して敢て譲らぬなどは、古今東西にその例を見ない由々しき重大事である」とさえ極言したものである。
そういう次第であったから、三井財閥は単に怪しからぬヤツだとして国賊呼ばわりを受けたばかりでなく、その後現実に日本の金本位が停止されて円貨の暴落が起こるや、三井財閥は国策の犠牲において巨利を博したのだと世間一般に確信され、三井一家も池田成彬も相次ぐ暴力団の訪問や寄付強要の脅迫を受けあらゆる迫害の波状攻撃に曝された。“三井ドル買い事件”とは、実にこのイキサツを指しているのである。
後でも説く通り、若槻礼次郎内閣はその年の暮内務大臣安達謙蔵の叛逆にあえなく潰れ、同時に井上蔵相の金本位護持の努力も空しく消え去ったが、この政変の裏にも“ドル買い筋”の策動が臆測され、さらに三井財閥による“毒殺説”までが伝わった。固より特に根拠のあることではない。この説もまたドル買いの総ての罪を三井財閥に帰した伝説と同じものである。
当の池田成彬は「三井銀行の買ったドル為替はイギリスの金本位停止以後年末までに政府が現送した総額3億5000余万円の約1割に過ぎず、それも思惑的性質のものではない」と、その著書『財界回顧』の中で弁明している。尤も別の資料によれば、三井銀行の外に物産や信託の買いもあり、正金銀行の統制売総額7億6000万円の内三井関係全部で1億円見当に達し、ナショナル・シチー銀行に次ぐ額となっている。
しかし一方また後にも説明するように、ドル買いが相場の先行きを眺めての経済行為である以上、そこに利害損得の打算があり、成功した場合に利益があることは間違いない。また時の責任当路が懸命に努力しているところに対して、民間の代表的有力銀行家が協力的でなかったことも確かであろうし、時間の経過とともに、行き懸り上政府の失敗を望ましいと思うようになったであろうことも想像し得るのである。
今日では既に時間の経過もあり、人心も冷静であるから、以上の説明だけでも読者は理解されることと思うが、“ドル買い”ということは、その本質においては純然たる経済問題だったのである。イギリスの金本位停止は当時の国際金融界では最大級の重大事件であった。その結果英貨ポンドの相場――米貨ドルとの交換比率――は急激に低落した。今日でもポンドはドルと並んで世界の2つの代表的通貨である。その価値の変動は日本にとっても重大な問題たるを失わない。まして当時日本の円貨は英貨ポンドにリンクしており、日本は世界通貨地図においてはポンド圏に属していた。ポンドの金本位離脱が必然的に円の金本位離脱――円貨の低落――に導かれるであろうと見ることは、経済人にとっては当然のこととされ、従ってドルの買付けに競うということも経済の必然としては少しも不思議はなかったわけである。
だからドル買い事件は、その純粋な経済的姿についていう限り、“先高見越しで買い先安予想で売る”という至って平凡な自由経済の原則が、国際的通貨売買の面で現われたに過ぎない。
ところが一方この問題には、“純粋な経済的姿”のみについて理解することのできぬ要素もあった。それはこの外貨取引は他の普通の商品取引と違って、金本位という経済の基本的な制度を通じ、且つ取引の保証に対する政府の責任に絡んで、国の政策と重要な関連を持つものだったからである。そこに政府当路として護持に努める理由もあり、その護持の努力に対して非協力的な民間業者が私利追及者として非難される所以もあったわけである。
ところがその外に時の蔵相井上準之助には致命的な政治的固執があった。ドル買い事件を発生させた出発点もその固執であったし、井上の失敗の根因もその固執にあった。というのは時の若槻内閣(民政党)は、その前年昭和5年1月に金本位復帰(いわゆる金解禁)を断行した浜口内閣の延長であり、大蔵大臣の井上は当初からの責任者であった。然るにイギリスの金本位の停止された昭和6年9月は、それからまだ僅かに1年9カ月しか経っていない。井上としては自らの施策に対する自惚と執着から、イギリスはどうあろうとも日本は断じてこれに従わぬと頑張る行懸りは既に十分にあった。
井上はドル買いの大勢に対して無制限に売り応じた。売り応じたといっても正確にいえば横浜正金銀行に対して無制限売りを命じた。無制限に売ることによって、金本位の堅持決意を明かにするとともに、ドル買いの無用を市人に信じさせドル・ラッシュを沈静せしめようとした。
もし井上大蔵大臣の地位が長く続いて、正金の統制売りが井上の目算通りに結末まで進んだら、あるいはこの取付は少なくとも一応沈静したかも知れない。ドル買いが別に利益でなかったことになっていわゆる“三井のドル買い”も、その有終の美? をなさず、従ってドル買い事件そのものも問題にならなかったかも知れない。ところが同じ年の暮も迫った12月12日、若槻民政党内閣は内部不統一で頓死し、代って出現した犬養政友会内閣によって即時金本位の停止が行われ、円貨の暴落即ちドル貨の急騰となり、ドル買い連中に“巨利”を許したこととなった。ドル買いの本尊? 三井財閥が巨利を博したことになったのはいうまでもない。のみならず、若槻内閣の頓死もつまりは三井財閥が手を回して毒殺したのだという臆測まで発生した。
若槻内閣の頓死の経緯は、ドル買い事件の政治的半面として是非語らねばならぬ。それには先ず経済的半面の説明が必要である。
前に述べた正金の統制売りを敢てさせた井上の肚の中はこうであった。一つには、正金銀行のドル売の約定は――多く2月とか3月とかの先約定となっていた――如何にそれが多くなっても、当時まだ大量に残っていた正貨保有高の中から現送して――為替迭金でなくて現ナマによる送金を正貨現送と称した――決済することができると考えた。もう一つ井上の肚の中は、ドル買いの大半はどうせ思惑による鞘カセギだ、鞘がないと極まれば、決済期が到来しても解約するものが沢山あるだろう、とこういうことであった。
井上はそうした事情を特に重要に考えて、その“決戦”の一応の時期を年末12月と考えた。年末の決済期が迫るに連れて、円資金の調達に困る向きは勿論、受渡の実行を不利とするドル買者流の中には、先約定の解約を申し出るものが続出するに違いない、そうすればこの9月以来の“ドル買い合戦”は明白に自分の勝利に終るもんだと井上は考えた。
しかし井上のこの自信には大きな盲点があった。井上は金本位に政治的行懸りを持つ民政党内閣の一閣僚に過ぎなかった。井上はそれに気がつかなかったのである。若し若槻内閣そのものが倒れるか、それとも何か別の事由のために大蔵大臣井上準之助の地歩が弱まった場合に、金本位が果して堅持され得るかどうかは少しも確かではなかったのである。
既に若槻内閣はその年の9月満洲に起こった事変をさえ、有効に処理し難い状態にあった。従っていつ政変が起こるかわからぬといったのが当時の実情であった。
そうした政治的不安定に関連して何より重要であったことは、ドル買い合戦の飛沫を受けて経済界一般が異常の金融難に襲われたということである。先にも説明した通り、ドルを買った銀行筋は、期限到来に備えて受渡実行のための円資金を用意せねばならぬ。用意するには貸出を抑制するとともに、既往の貸出について回収を厳にせねばならぬ。その上日銀は資金引締めのために2度に亘って金利を引き上げた。折から、さなきだに不況にあえぐ産業界としては恐るべき事態である。金本位維持などというようなハッキリしない目的のために斯様な苦しみをするよりも、むしろ金本位が破れて為替が低落した方がよいとする願望は次第に経済界全般に広まったものである。
そうした願望が若槻内閣の崩壊、井上蔵相の退陣への願望となってゆくことは自然の数であった。殊に為替低落の裏には物価高騰、景気到来というヒロポン的効果が約束されている。少なくともそう考えることは当時の常識であった。その上に有力な野党の政友会は、11月10日金本位停止の必要を党議として決定した。この際政変さえあれば金本位崩壊――円貨低落――ドル買い成功――景気回復となる可能性は歴然たるものがあるに至った。
こういう状態の下にドル買い合戦の決戦期12月が近づいた。事経済政策に関する限り井上の正攻法的包囲作戦は功を奏し、ドル買いの新たな動きは既に早くから消滅していたのみならず、一時金本位停止を見越して低落していた円貨も年末に近づくに連れて旧態に回復し、ドル買いの大手勢力だった外国銀行筋では、見込み違いと円資金の欠乏とに堪え兼ねて、逆にドル売を開始するなどの事態にまで進んだ。井上が“金本位のために乾盃する”日もいよいよ近いかに見え出したのである。
ところがである。球を抱いて猛然ゴールに駆け込むかに見えた井上選手の脚は突然鮮かなタックルに妨げられ、井上は見事に転倒した。タックルしたものは誰か。人もあろうにそれは味方の有力選手内務大臣安達謙蔵であった。若槻内閣は決戦直前に崩壊し、9月以来3カ月近い政府、日銀、正金の苦心は水の泡の如く消え去った。そして次に現われた犬養政友会内閣によって金本位は停止され、円貨は急落しドル買い派の圧倒的勝利に終ったのである。
内務大臣安達謙蔵のこの時の行動が一種の叛逆であったことは間違いない。叛逆の背後に伝えられる如く三井財閥があって、若槻内閣が“毒殺”されたのかどうかは固より明かでない。
しかしそれはそれにしても、12月11日の夜半突如として起こった政変が、当時ドル買い合戦で落目に向った“買い方”と、合戦の飛沫を受けて苦しんだ一般産業界とにマルで無関係であったとは考え難いのである。
ここで特に重要なことは、ドル買い合戦に勝利の日近しと見た政府側では、既約定の解け合い(解約)は12月15日までの申込みに限ると決定した。つまり「15日までにキリキリ耳を揃えて現金をもって来い」と強引な態度を宣言した。かようにして「12月15日」はドル買い合戦の決戦の日となり、経済界は異常の緊張に包まれたのであった。
そうした決定が12月10日の新聞に伝えられた次の日内務大臣安達謙蔵は前から提唱していた「協力内閣」の主張について閣議を求めた。そして閣内の大勢が自説に従わぬと知るや中途退席して自宅に帰り、湯にはいりドテラを着込んで一杯やり乍ら、再三の呼び出しにも応ぜず、わざわざ出向いた辞退勧告の使をも拒否した。処置なしの若槻内閣は遂に夜半に至って総辞職を決定、翌12日早朝辞表を奉呈した。かくて井上は決戦の「12月15日」を待たずして退陣を余儀なくされ、ドル買い合戦は政府側の大敗北となった。
では安達は何故に斯様な強引な態度をとったか。内閣倒壊の因をなした「協力内閣」とは何を意味するものであったか。また誰が安達をしてかかる態度をとらせたか。これらは一切謎である。若槻自身「わからぬ」とその自伝の中に書いている。だが「協力内閣」の主張に押し倒された若槻内閣の次に出たものは、協力内閣ならぬ少数の政友会単独内閣であった。安達は反対党政友会のために働いたと同じ結果になった。
安達謙蔵は旧同志会、憲政会、民政党とずっと党の幹部であり、若槻内閣の頃からは副総理格であった。浜口内閣にも内務大臣として重きをなしたが、大蔵大臣として入閣した新入り党員の井上準之助の勢力が急速に伸びるに連れて、井上との間に深い溝ができた。「協力内閣」の主張が果して安達自身のものであったかどうかは、安達の行動とその前後の政治的動きとを見れば誠に疑わしいが、当時の政情が政民両党の「協力」を必要とするものであったとは判る。
安達とともに「協力内閣」運動を推進したものは、乾分格の中野正剛や山道襄一(幹事長)は固より、党顧問の富田幸次郎、松田源治らであった。それに野党的政友会の怪物幹事長久原房之助も呼応した。安達が最後の決定行動をする前には、安達をめぐる策士達は当時政界財界を通ずる顔役的存在として著名だった某大実業家の私邸をアジトとして謀議を進めた。その某実業家が謀議の黒幕であったかどうか、さらにその某実業家の背後に“ドル買い筋”があったかどうか、それらはいずれも明白ではない。しかし安達の運動が仮に“ドル買い”筋に直接ヒモを引いていなかったとしても、ドル買い合戦によって引き起こされた未曽有の金融逼迫に苦しんだ産業界から有力無言の支持を得ていたであろうことはいうまでもあるまい。
そう考えて見ると、さらに、安達叛逆のスポンサーが誰であるかは必ずしも重要でないことにさえなって来る。井上準之助によって強行された金本位堅持の方針は、その技術的施策においては成功し乍らも、政策の生んだ副作用はついに思わぬ政治的破綻として現われるに至った。言い換えれば井上はその強引な施策によって知らず知らず自ら掘った溝に転落したものといえるのである。斯くてドル買い事件は終った。世間では“三井のドル買い”として喧伝されたけれど、その本質は以上説明する通り純然たる経済問題であった。“三井のドル買い”などは日本金本位制度の終末を賑やかした泡のような一場面にすぎない。それ以来本来の形における金本位制度は日本から全く失われた。今後も再び甦えることはないであろう。
(時事新聞論説委員)
(内海 丁三/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)