太平洋戦後期、重巡洋艦「妙高」の少年兵としてレイテ沖海戦に出撃し、九死に一生を得た横浜市緑区の吉井利夫さん(96)が今、語っていなかった体験を伝えようとしている。「乗艦していた仲間も亡くなり、自分には記憶を残していく役割がある。戦争は人ごとではない――」。不戦や平和を若い世代に考えてもらうため、5日に初めて講演会に参加し、自営の喫茶店では客を相手に静かに「語り部」を務めていくつもりだ。(石塚柚奈)
愛媛県西条市出身の吉井さんは6人きょうだいの長男で、高等小学校卒業後に地元の農協で働き始めたが、上司から「勉強できる場所がある」と勧められ、1942年9月に海軍特別年少兵に志願した。長崎県佐世保市の海兵団を経て、横須賀市の海軍工機学校で学んだ。試験の結果が悪いと、棒で尻をたたかれた。「恐怖心をなくすため、人をおかしくさせる教育だった」
43年12月、広島県呉市に着港している「妙高」への乗艦を命じられ、発電機場の任務となった。つらい仕事が多く、数少ない良い思い出は、パラオでアイスを食べたこと。「あの味は忘れられない」
乗艦から10か月ほどが経過した44年10月、レイテ沖海戦に出撃。大砲の音が周囲に響くなか、当時世界最大級とされた日本軍が誇る戦艦「武蔵」が沈む姿を目の当たりにした。「妙高」も後部右舷の機械室に魚雷を受けると、後部の発電機場にいた吉井さんのもとには「ドーン」という爆発音と同時に海水が入り込んできた。「2、3メートルずれていたら自分が絶命していた」
艦は深く傷つきながら、日本占領下のシンガポールにたどり着いた。浸水部の水を抜くと、パイプをつかんだまま息絶えた仲間の姿があった。機械室では30人ほどが亡くなり、同じ少年兵5人もいた。その後も戦闘は続き、脚が腐った負傷兵からは異様なにおいが漂い、仲間の遺体を海へ捨てたこともあった。
終戦はシンガポールで迎えた。半年ほど収容されて46年に日本へ戻った。実家の農業に従事した後、53年から親戚を頼って横浜市で商売を学び、独立して電気製品や家具を扱う事業に成功し、70年から喫茶店「ウェーク」(緑区長津田)を営んでいる。
10代の戦争体験を語ることに、どう話すべきか、少しためらいもあった。それでも、年齢を重ねるうちに「妙高の乗艦者は、誰もいなくなってしまう。若い世代に伝える必要がある」。心境の変化も講演会参加に背中を押した。ロシアのウクライナ侵略など、現在も世界で戦争が続く。「戦争は一瞬にして何十人もの仲間の命を奪う。あってはならない」
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講演会「戦争体験者の生の声から」(主催・ごえんのちから)は5日午前10時~午後4時40分、横浜市緑区長津田の「みどりアートパーク・ホール」で開かれる。吉井さんら戦争体験者や遺族の計5人の話が講演や映像で聞ける。大人1000円、中学生以下無料。問い合わせは、主催団体(090・2521・1996)へ。
◆レイテ沖海戦=1944年10月、米軍再上陸地点のレイテ湾を焦点に、フィリピンの広大な海域で展開された日米海上決戦。シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、サマール沖海戦、エンガノ岬沖海戦などから成る。戦艦「武蔵」はシブヤン海で沈没し、乗組員2399人のうち1000人以上が犠牲となった。日本海軍連合艦隊は可動全力を投入して大敗し、以後、組織的戦闘力を失った。