太平洋戦争末期の1944年10月、劣勢に陥っていた日本軍は、敵の軍艦に体当たりする特別攻撃「特攻」に打って出た。爆弾を抱えて戦闘機に乗り込み、命を落とした兵士は約4000人とされる。出撃すれば生きて帰ることのできない作戦は、「空」だけではなく、「海」でも命じられていた。
「これは貴様らの棺おけだ」
44年末、瀬戸内海に面した山口県光市の海軍基地。30人ほどの若者が、基地内の整備工場に集められた。当時21歳で、現在は京都市に暮らす瀬川清さん(100)もいた。
工場内に置かれた大きな台の上に、全長15メートル、幅1メートルほどの筒型の鉄の塊があった。上官である大尉の放った言葉に、震えた。
「これは貴様らの棺おけだ」
上部のハッチを開けると、1人しか座れない狭い操縦席に、計器が所狭しと並んでいる。後部にはプロペラが付いていた。艦艇から放たれる魚雷に人間が乗り込む「回天」だった。
兵力不足を学生で補うために43年から始まった「学徒出陣」で慶応大から徴兵された瀬川さんは、望んで特攻隊員になったのではない。回天と対面する少し前、上官に「特殊兵器ができた。君たちは全員志願するだろうから、こちらで選ばせてもらう」とも一方的に告げられた。
訓練からすでに死と隣り合わせだった。薄暗い艇内で操縦かんを握りしめ、海中を進む。少しでも操作を誤れば海底の岩に挟まり、浮上できなくなるかもしれないと思った。訓練中の事故で亡くなった隊員もいた。遺体を見ても平静を装ったが、トイレでは涙をこらえられなかった。
ある時、米軍の飛行機が目の前の海に墜落するのを見た。投げ出された搭乗員の上空を、米軍の僚機が旋回していた。「自分たちは兵器そのものなのに、敵は兵士1人を助けようとしている。そんな国に勝てるはずがない」。力が抜けた。
瀬川さんに出撃命令が出ることはなかった。
脱出装置の有無、暗号で伝達
瀬川さんの1学年上で、同じ光基地で過ごした人がいる。和田稔さん。東京大学から学徒出陣し、回天の隊員になった。
同じく隊員だった神津直次さん(故人)が、著書「人間魚雷回天」(朝日ソノラマ)に、和田さんとのあるやり取りを残している。
44年末、回天隊員の中でも先に配属された「先発隊」として一足先に光基地へ着いた和田さんは、「後発隊」として長崎県の訓練所で待機中だった神津さんたちに一通のハガキを送った。先発隊が回天の実物を見たら、後発隊に「脱出装置があるか否か」を暗号を使って伝えることになっていたからだ。
暗号は「脱出可能」なら「武田ニヨロシク」、「脱出不能」なら「工藤ニヨロシク」、「不明」なら「和田の歯ナホラズ」と決められていた。そして受け取ったハガキは、「工藤ニヨロシク」だった――。
<もう半分あきらめていたから表面は変化はなかった。内面は各自複雑な思いのはずだが>
<われわれは回天が自爆兵器かどうかを知らなかった。たぶん、そうではあるまいかと思っても、まだ一縷(いちる)の望みは捨てていなかった>
当時の心境を、神津さんはそうつづった。
記者は、和田さんの義理の妹のみつさん(90)=神奈川県鎌倉市=にハガキのことを伝えた。「死ぬ覚悟はできていたんだろうと今まで思ってきたけど、暗号まで使って脱出装置があるかどうかをやり取りしていたなんて……。本当はどんな胸中だったんでしょうね」と思いをはせた。
和田さんは終戦3週間前の45年7月25日、光基地から訓練に出たまま行方不明になった。およそ2カ月後、海底に沈んでいた船が浮上して操縦席から遺体が発見された時、既に戦争は終わっていた。23歳の若さだった。
回天の訓練を受けたのは光基地など4基地にいた計1375人。神津さんは出撃しないまま終戦を迎えたが、延べ153人が西太平洋のパラオ諸島などに出撃した。訓練中の事故死なども含めると106人が犠牲になった。【宮崎隆】