先の大戦末期、米国が長崎市に投下した原子爆弾で被爆した荒木忠直さん(79)=千葉県鎌ケ谷市在住=が10日、千葉県庁の「平和祈念原爆展」で登壇した。荒木さんは当時1歳で、爆心地から約4・1キロ離れた場所に住んでいた。姉の話や被爆者の体験集をもとに、「生き残った者の使命」として、学校などで原爆被害の実相を伝え、核兵器の恐ろしさや平和への思いを発信している。
昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市松山町の上空500メートルで1発の原子爆弾が炸裂(さくれつ)した。想像を絶する熱線と爆風が街を襲い、大量の放射線が人々の体を貫いた。爆心地から1キロ以内の家屋は押しつぶされ、3千~4千度(鉄の溶解温度は約1500度)の熱風によって人々は大やけどを負い、街は炎に包まれた。火の手は、爆心地から2・5キロ先の長崎駅なども焼き尽くした。
当時1歳2カ月だった荒木さんは、祖父母、両親、8歳と6歳の姉2人の7人で、爆心地から約4・1キロ離れた長崎市中新町に住んでいた。この日も午前中に空襲警報があったが、すぐに解除となり、父は船に乗って長崎造船所へ出勤し、母と祖父は外出していた。祖母と2人の姉、荒木さんが在宅しており、祖母は昼食の支度をするために台所に立ち、荒木さんは布団の中で眠っていた。
午前11時2分、閃光(せんこう)とともに「ドカン」と大きな爆発音が鳴り響いた。一瞬にして窓ガラスは割れ、家の中のタンスが荒木さんの布団に倒れてきたが、幸いにも近くの柱が支えとなって押しつぶされることはなかった。
荒木さんはすぐさま祖母に抱えられ、姉2人とともに近くの防空壕(ごう)へ避難した。2~3時間ほどが経過して家へ戻ると、窓ガラスは飛散し壁が崩れていた。間もなく帰ってきた母はガラス片で血を流していたが軽傷で、父も祖父も無事だった。
しかし、同年8月15日の終戦から2年後。荒木さんは、原爆の放射線の影響によるがんで父(享年40歳)を亡くし、その2カ月後には母(享年34歳)を、その3カ月後には祖母(享年59歳)を失った。
荒木さんと次姉は、東京の叔父夫婦のもとへ引き取られた。荒木さんは「私たちの家庭や日常生活が1発の原爆により破壊されてしまった」と語る。
「このような悲劇を2度と繰り返してはいけない。日本だけでなく、世界の人たちが原爆による被害にあってはならない」。荒木さんは壇上でこう訴えた。(久原昂也)
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長崎市への原子爆弾投下 昭和20年8月6日に人類史上初めての原子爆弾が広島市に投下されてから3日後の同年8月9日午前11時2分、米国は長崎市に原爆を投下し、同市松山町171番地のテニスコート上空で爆発した。当時の長崎市の人口約24万人のうち約7万4千人が死亡し、約7万5千人が重軽傷を負った。建物の約36%(約1万8千戸)は全焼または全壊・半壊した。長崎市は、いまのところは人類史上最後に戦争で核兵器が使用された場所となる。