〈 やせ細って妄想にとりつかれた兵士たち、日光が入らないように病室に暗幕を…100歳の元「従軍看護婦」の見たもの 〉から続く
1923年(大正12年)に生まれ、今年100歳になった元「従軍看護婦」の土屋美代子さん。戦時中、戸塚海軍病院で看護婦(師)として忙しい日々を送る当時20代前半の土屋さんだったが、戦火はいよいよ足元まで忍び寄ってきていた。
1945年(昭和20年)2月15日、B29による爆撃で道路の向かい側にある衛生学校に被害が出た。多くの死傷者が出たのを皮切りに、街外れだった戸塚地区でも空襲の被害を受けるようになる。
土屋さんも艦載機による機銃掃射で九死に一生を得た。5月以降、入院患者を福島の飯坂、山梨の身延、静岡の可睡などに設けられた分院に疎開させる作業も始まった。8月には終戦が迫っていた。
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雪の降った次の日の空襲。爆撃の中、遺体を担架に乗せていっしょに避難し…
――終戦の年の2月15日でしたか、空襲で向かいの衛生学校が被爆したそうですが、その時のことを覚えていますか?
土屋美代子さん(以下、土屋) よく覚えています。あれは雪が降った次の日で、煌々とした月があたりを照らして明るい晩でした。宵くらいに空襲警報が鳴ったんですが、その直後に患者さんがひとり亡くなられて、ご遺体を担架に乗せていっしょに避難しました。
――爆撃の中、ご遺体とですか!?
土屋 海軍というところは、陸では遺体はなるべく原隊(所属先)に帰そうとするんです。そしてその手続きが済むまでは、病院の責任ということなんです。
このときは病院の方には被害はありませんでしたが、衛生学校と軍医学校の校舎が焼夷弾で真っ赤に燃え上がりました。さすがに怖かったですね。月明かりで建物の屋根に描かれていた大きな赤十字が飛行機からも見えたはずですが、そんなことはおかまいなしでしたね。
〈土屋さんは内科病棟担当だったため直接は関係しなかったが、このとき外科病棟にはトラックに山積みの負傷者が運び込まれ、廊下がけが人でいっぱいになるほどの惨状だったという(横浜市史資料室:市史通信第44号「戸塚海軍病院看護婦の日々」羽田博昭 より)。〉
「手の指くらいの大きさが…」身体のすぐ脇を通り抜けた機銃掃射の弾丸
――病院の周辺が被害に遭ったこの日の翌日から、横浜地区は連日艦載機の大群に襲われるようになっていったと聞きました。
土屋 毎日のように空襲警報が鳴っていました。警報が鳴ると、動けない患者をベッドの下に隠し、動ける患者とともに防空壕に避難するんですが、ある日避難のために病棟を出た私たちは、いきなり上空50メートルくらいから機銃掃射を受けました。
すぐに地面に伏せましたが、弾丸は5メートル間隔くらいでバリバリと砂煙を上げながら着弾、すぐ脇を通りすぎていきました。解除後に病棟に戻ると、手の指くらいの大きさの弾丸が落ちていましたね。
――3月10日の東京大空襲も強く印象に残っていらっしゃるそうですね。
土屋 その日は避難するとき、防空壕の入り口で空を見上げると、東京の方角が真っ赤になっているんです。そこにB29だという大きな飛行機が飛んでいる。なんともいえないような光景で、当時、砂町(現在の東京都江東区東部)に姉が住んでいたので気が気ではありませんでした。
空襲後の東京。焼け野原、屍、そして腐臭…
――安否を確かめに行かれたのですか?
土屋 その後の最初の外出日に病院から特別許可をもらって東京へ行きました。東京駅から砂町までは徒歩です。道すがらはずっと焼け野原です。防空壕の入り口に手をかけたまま死んでいる人がいたり、途中渡った川の中では、材木の上に大勢の人が折り重なって死んでいるんです。
兵隊がそれを大きなピンセットのようなものではさんで持ち上げて、放り投げるようにトラックに積んでいく。地獄絵図でした。あたりにはなんともいえない腐臭が立ち込めていました。たどりついた砂町も、被害を受けてはいましたが、幸い姉も姉の家も無事で胸をなでおろしました。ただ、あの腐臭は病院に戻ってからも2週間以上も鼻について離れませんでした。
終戦のその瞬間「ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。降ろされていく旗を見ながら…」
〈戦いは激しくなるばかりで、一部の患者の地方分院への疎開転院も相次いでいたが、新規入院患者も運ばれてくる。土屋さんたちは空襲におびえながらも日々の勤めを必死にこなしていた。
そんな中で、8月には広島・長崎に原爆投下。同9日には、「長崎に敵の新型爆弾が投下された。外出には充分注意せよ」との訓示があったという。そして、いよいよ8月15日……。〉
――当時、本土決戦などという言葉も叫ばれていましたが、なにか体制が変わったなどということはありましたか?
土屋 特になかったですね。訓示のあった翌日には普通に外出してましたし。“半舷上陸”といって、班のうち半分ずつが交互に外出できたんです。もっとも、門限までには帰って来なければならなくて、行ける範囲も横浜くらいまででしたが。
――8月15日、終戦の日のことを教えてください。
土屋 海軍ですから、陸にある海軍病院のような施設も軍艦と同じように軍艦旗を揚げていたんですが、終戦のときは本部前に集合がかかり、玉音放送を聞いたんです。その後、「軍艦旗降下」といって、ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。玉音放送を聞いたことより、このほうが印象に残っていますね。
降ろされていく軍艦旗を見ながら、みんな泣きましたよ、なぜってことじゃないんですね。泣いたのはね。なぜ泣いたかなんてわかんないですよ。そして、海軍で航空機に乗っている弟のことを考えていました。
〈海軍の水上機搭乗員として佐世保の航空隊に所属していた弟・土屋正男さんは、終戦までわずか一月半ほど前の7月2日に空戦で戦死していたことが後でわかる。〉
「私たちは自決用の注射液を確保して持っていました」
――終戦を知らされた後は……?
土屋 患者を原隊や、原隊がない人は直接郷里に帰すなどの残務整理に追われていました。「(日本占領軍最高司令官)マッカーサーからの指令で、看護婦はみな防空壕に押し込められて殺される」などというデマが流れて、私たちは自決用にアヘンアルカロイドの静脈注射液を薬局で確保して持っていました。占領軍が来たらこれで死んでやろうと思っていたんです。
でもある兵隊さんに、「土屋看護婦、死んではいけない。生きておばあさんになって、若いときの話を孫たちに聞かせるんだ。それまで死んではいけない」と諭されました。私はいままで独身を通していて孫はおりませんが、こうして皆さんが話を聞きに来てくれて幸せです。本当にありがとう。
兵隊たちの「語られなかった言葉」
――あの頃について、なにか思うところはありますか?
土屋 今となってはかなわぬ望みでしょうが、当時の兵隊さんにはお会いしたいですね。みんなシラミだらけでやせ細って帰って来て、もっと親切にしてあげればよかったと思います。
兵隊さんも箝口令でも敷かれていたのか、戦地でのことは話しませんでしたね。あまり戦地の厳しい状況を話してしまうと、内地の人たちの士気をくじくことにもなりますからね。
ただ、兵隊さんの目を見て、「つらい思いをしてきたんだな」と想像するばかりでした。自分が帰って来ても、まだ戦友たちは戦地で戦っているわけですから、ほっとしたような顔をしている人は一人もいませんでしたよ。戦友というのは結びつきがすごく強いものなんですよ。
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※この記事はインタビューと合わせ、土屋さんの自著「過ぎた歳月」の記述を加えて構成しています
(井出 倫)