「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで

〈 10人きょうだい、初恋のラブレター、32歳で会長に…創価学会・池田大作名誉会長の意外な“実像”とは「将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 〉から続く
11月15日、創価学会の池田大作名誉会長が東京都内の自宅で老衰のため死去した。95歳だった。日本最大規模の宗教団体を長年率い、1964年に公明党を創設してからは政界でも大きな影響力を発揮してきた。
宗教団体のありかたが問われた2023年、池田氏の死は今後にどんな影響を及ぼすのか。2010年に「週刊文春」に掲載された記事を期間限定で再公開する。
(初出:「週刊文春」2010年12月2日号/年齢・肩書等は公開当時のまま)
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半年振りに近況が報じられた池田大作氏(82)だが、健康状態を危ぶむ声は尽きない。今では“王朝”の奥深く隠れ、幹部ですら会うことがままならない。かつて若い魅力的な宗教指導者として社会に登場した池田氏は、どこから、なぜ変わったのか。
今から47年前の『週刊文春』(昭和38年2月25日号)に、「折伏(しやくぶく)に生きる若き指導者・池田大作」と題したこんな記事がある。創価学会会長に就任して3年目の池田を1週間密着取材したレポートだ。
〈狭い道を走っていると、「あ、先生だ」という声がする。学会員の乾物屋だ。池田さんが、「せっかくだから、何か千円ぐらい買って行こうよ」と車を止める。
向い側の魚屋も学会員だと分った。「こりゃ、困った」と嬉しそうな顔で、結局、両店から、あじの干物とめざしを買って、車の中へ〉
こんな文章が5ページにわたって続く。今では想像もつかない記事である。
女性誌は池田氏を颯爽と登場したスターのようにあつかった
女性誌も、若くして巨大教団のトップに立った池田を、颯爽(さつそう)と登場したスターのようにあつかった。
〈「アルバイトをつづけても学校を卒業しなさい。努力すれば、あの夜空の星の一つが、あなたのダイヤモンドになりますよ」と池田氏。なんてステキな詩人だろう! と渡部(通子。のちに池田の女性問題で話題になる相手)さんはいっぺんにチャームされてしまった〉(『女性自身』昭和39年6月22日号)
といった具合である。
この時分、マスコミとの関係もよく、各社から執筆の依頼があったのか〈「女性自身」は3年間書いた。又載せてくれ、と云ってきている〉(『社長会記録』)と自慢している。
当時のメディアは、池田の登場を、すがすがしく、優雅で、個性にみなぎる庶民的な「若き指導者」として受け止めた。その裏で、壮絶な闘争が展開されていたとは、想像もつかなかったのである。
過去の記事を読むと、池田が第三代会長になった途端、独裁者のようになったと書かれているが、組織掌握はそう簡単ではなかった。11人いた理事のうち、池田は最年少者である。昭和34年に、池田と同時に理事室入りした青年部の3人は、戸田門下生で池田の“親衛隊”だが、あとの7名は牧口初代会長の門下生で、全員が大正生まれだ。「戸田の薫陶を受けた理事や最高幹部がまだ健在でしたから、勝手なことは出来なかった」と学会古参幹部は言う。
実際、池田が会長になって2年目の昭和37年、理事会は創価学会規約を改定して、池田にしばりをかけている。重要なポイントは次の2点だ。
(1)会長は理事会によって罷免されることがある。
(2)会長の任期は4年。
学会を宗教法人として届けたときに、会長の任期を2年と定めたが、実際は「戸田が生きているかぎり会長だと思っていた」会員は多い。それを4年にし、理事会に会長の罷免権を与えたのである。これは池田にとってかなりの重しである。
ところが、4年後の昭和41年、任期切れを前に再度規約を改正。
(1)会長は、副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する。
(2)会長の任期は終身とする。
(3)会長は、後任を選ぶことができる。
会長と理事の地位が逆転し、池田は独裁的な力を得ている。おそらくこの間に、池田はあらゆる策を弄したのだろう。
池田はまず、青年部を中心に、幹部たちの心をつかんでいった。その一端を、のちに第四代会長となる北条浩はこう書いている。
〈池田先生が私を横において、何人かの人と話をされたときにこういわれた。「私はこの人といっしょに死ぬ決心をしているんです」と。そのひと言はまさに私の肺腑をえぐるひと言であった〉(『前進』昭和35年6月号)
「『選挙大変だったな、この次がんばれ』と札束をいただきました」
人心を掌握する術はまさに天才的である。
二見伸明元公明党副委員長は、昭和55年に落選したとき、こんなことがあったという。
「横浜の会館に呼ばれ、(池田から)『選挙大変だったな、この次がんばれ』と札束をいただきました。これから大変だろうから生活の足しにしろという意味でしょう。1年間の生活費にはならないけど、当面の生活は助かるお金でした」
強面の一方で、こういう細やかな気遣いが人を惹きつけるのだろう。
足元を固めるには、戸田前会長の正統な後継者であると演出することも重要だった。会長就任の直後に出た『大白蓮華』に、池田はこう書いている。
〈昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から、一階に降りるエレベーターの中で、先生は申された。
「わしの、いっさいの仕事は、これで終わった。あとは、おれと、お前だ。お前が、あとはしっかりするんだぞ」と〉
こうした物語が「青年部の連中によって広められていく」(元学会幹部)のだが、それと同時進行で大幹部を学会の中枢から遠ざけていったと、元東洋哲学研究所研究員の原島昭は言う。
「池田が実質的に権限を握った昭和34年から、本部の中枢にいた幹部たちをどんどん国会議員にさせるんです。私の父(原島宏治)もそうですが、昭和40年頃には大幹部のほとんどが議員になります。国会議員になると国会の仕事が忙しくなり、学会での発言力が失われていきます。池田の腹の内がわかっても、国会議員は名誉職ですから誰も文句を言いませんよ」
池田が天才的なオルガナイザーぶりを発揮するのはその後である。11人いた理事を、45年には1700人にも増やし、実質的に理事たちの権限を奪ったのである。学会の元幹部は、「理事とか副会長は名誉職で会員への“ニンジン”なんです。池田さんが気に入ったらどんどん与える。励みになりますから」というが、私は究極の権力構造がここで完成されたように思う。理事が数人なら、権限が集中して池田を追い落としかねないが、1700人もいれば理事に権限がないに等しく、池田以外はその他大勢という逆T字型の権力構造ができる。現在、副会長が200名近くいるのも、これと同じ構図だろう。宗教学者の丸山照雄が、「あれだけの組織で、池田の本は腐るほど出てるのに、香峯子(かねこ)夫人の一冊以外、ナンバー2の本が出たことがない。他の宗教にくらべて非常に珍しい」と言うように、池田はナンバー2を許さなかったのだ。
池田の追い風となったのが、学会員の急増だった。ある古参幹部は、「戸田時代にも折伏のノルマはありましたが、池田になってさらに厳しくなりました。うちの妹なんか、折伏する人がいなくなって、街頭で『いい話があるから、ちょっと付き合ってくれませんか』なんて声をかけて折伏していました」という。さらに高度経済成長の波に乗ったことも大きかった。学会は「貧者の宗教」といわれ、都市部の貧困層や未組織労働者が多かったが、経済成長で会員の生活が豊かになったことを、学会は「供養したおかげ」に替えて喧伝したことも影響した。
そして昭和39年、膨大な会員をバックに、池田は公明党を結成させる。「国立戒壇の建立」が目的とされているが、現実には会員の利益擁護だったと前出の丸山は言う。
「公共予算にせよ、福祉関係の予算にせよ、地方自治体の庶民に対するサービスを仕切っていこうとしたんです。住宅供給などに介入して物質的利益を保障するんです。うちの近所の都営住宅なんて、半分は学会員といわれています」
「あれだけの金が集まると銀行が味方になる」
こうした勢いをかって、池田は昭和40年、大石寺に「正本堂」を建立するために寄付を募った。日蓮正宗は、戒壇堂の建立を日蓮の遺命としているが、池田はこれを、「事実上の本門戒壇というべき画期的な正本堂」と意義づけたから、全国の会員は奮い立ったという。寄付は30億円を目標にしたが、なんと4日間で355億円も集まった。貧乏教団に、莫大な集金力があったのである。この瞬間から、池田を含め、学会幹部は大きく変貌したと、現役の学会幹部が言った。
「あれだけの金が集まると銀行が味方になる。銀行が味方につけば、いざというときは銀行に圧力かけて脅せばいい。池田さんは、社会の仕組みを心得ているから、銀行さえ抑えれば後はどうにでもなるという力関係の図式を読んだのです」
この直後だった、と宗門の古参幹部は言う。
「正本堂を建てることが決まって建設委員会を立ち上げたのですが、第2回の委員会が始まると、池田は日達上人の前で宗門幹部を怒鳴りあげて流会にしたんです。法主上人の椅子に肘掛けがついていたのに、池田にはなかったという理由でしたが、こんな傲慢な態度をとったのは初めてでした」
前出の現役幹部によれば、聖教新聞に『人間革命』を連載し、編集方針にも口出しするようになったのもこの頃だという。
「昭和40年頃から、何を紙面のトップにするか、池田さんが口を出すようになりました。お供を連れて編集部にやってきて、『一面の見出しはこう変えろ』と、パッパと決めるんです。あの人は、本もよく読んでいて、言葉の使い方が天才的で、そのへんの編集部員じゃかないませんでした」
また前出の原島は、池田の“偉大さ”を周知させるためにこんなこともしていたと言う。
「私は昭和41年に東洋哲学研究所に入ったのですが、朝礼のとき、最近の会長はこういう立派なことをされたと、場内放送で流すんです。毎日でした」
やがて池田に、幹部の誰もが逆らえなくなる。そのことで池田は自分の力を過信したのだろう、宗門からの離脱を本格的に模索し始めた。ところが、過信がいきなり裏目に出る。昭和44年の「言論出版妨害事件」である。私にはこの事件の反社会性よりも、池田のあわてぶりがあまりにも幼稚すぎることの方が気になった。以下は事件の簡単なあらましである。
評論家の藤原弘達が学会の批判本を出すと聞き、池田が幹部に命じて出版中止の交渉をする。ところが逆に藤原にこの談判をテープに録音され、「創価学会による言論弾圧の重要証拠」として公表される。あわてた池田は、竹入義勝公明党委員長に命じて、自民党幹事長の田中角栄にもみ消しを依頼。田中は料亭で交渉するが、池田が隣の部屋で聞き耳を立て、それを仲居に目撃された。言論妨害が『赤旗』で批判されるや騒然となり、池田は竹入に「事実無根で押し通せ」と命じるが、これが逆に火に油を注ぎ、池田の証人喚問が検討される。あわてた池田は、公明党議員を総動員して、各党を懐柔させた――。というものだが、池田の小心さがよく伝わってくる。
池田の狼狽(ろうばい)は相当なものだったらしく、前出の現役幹部がはじめて明かす。
「あのとき池田さんは、『会長への批判は断じて許すな! 徹底的に叩き潰せ!!』と命じたんですが、あそこまで反発が大きいとは思わなかったんです。昭和44年の暮れでしたが、当時の最高幹部4、50名が渋谷分室に呼ばれました。その席で、池田さんが『もう創価学会を解散したい』とこぼしたんです。相当落ち込んでいました」
昭和51年の「月刊ペン事件」も同じだ。池田の女性スキャンダルを書いた『月刊ペン』の編集長を名誉毀損で告訴、この編集長を逮捕までさせたにもかかわらず、裏で密かに示談金2000万円を払っていたのだ。天才的オルガナイザーと幼稚さの取り合わせ、実に不可解としか言いようがない。
「言論出版妨害事件」によって、池田は、公明党と創価学会の分離を約束させられ、世間に謝罪した。
彼は〈私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者〉(『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』)と語っているが、先の現役幹部によれば、池田は本気で精神界と俗世を支配する“国父”になりたかったのだという。しかし、この事件によって、夢の半分は潰(つい)えてしまった。
「池田は、自分より上に立つ者がいると我慢ならないんです」
この直後から、池田は宗門からの独立に、より力を注ぎ始める。
「池田本仏論」がさかんにふりまかれるのもこの時分である。「大聖人御遺命の戒壇を建立した池田会長こそ、現代に出現した御本仏である」と語られ、池田こそ仏であると思わせたのである。池田自身もこれを煽(あお)った。こうした動きが本山の耳に達すると、本山は学会に本尊を下付しなくなった。そこで池田は、事態を解決するために「本部の地下で御本尊を模刻」(元学会幹部)する。俗世でいえばニセ札をつくったようなものだ。これがバレて「30万人とも50万人ともいわれる脱会者が出た」(宗門関係者)ため、池田はあわてたという。結局、池田は日達上人に謝罪することで矛(ほこ)を収め、翌昭和54年に会長を辞任して新設の名誉会長に引き下がる。
それにしても、なぜ宗門から独立しようとしたのか。当初私は、学会が会員から莫大な金を集めても、信徒集団でいる限り宗門に渡さねばならない。それを嫌ってのことではないかと考えた。平成元年に1億7000万円入った金庫をゴミと一緒に捨てた事件があったが、池田の周囲には金にまつわる逸話が掃いて捨てるほどある。
池田は、金の力を「御本尊」のように信仰していたとしか思えない。だからこそ、学会の「財務」は宗門に渡せない、と考えたのだと思ったのだが、あの355億円も、半分は学会にキックバックされ、「昭和50年頃から宗門には3億円ほどしか渡していないから、お金だけが理由ではない」と古参幹部はいう。
「日蓮正宗の信徒でいるかぎり、池田は法主の門弟に過ぎません。池田は、自分より上に立つ者がいると我慢ならないんです」
会長辞任の翌年、ある葬儀で池田と会った宗門関係者は驚いたという。
「『会長を辞めたときは、隠居するつもりで藤沢の鵠沼(くげぬま)に土地を買ったんだ』と言っていましたから、実際に引退する気もあったようです。しかし、『学会は私がいないと駄目なんだ。見ていられなくてしゃしゃり出ることになった』と。会長辞任後は院政を敷かないと日達上人と約束したのですが、すっかり忘れていました」
池田にとって仇敵とも言えた日達上人が遷化(せんげ)すると、その直後、池田は会長の任期を5年に制限し、名誉会長にすべての実権が集まるように規約を改定した。そして再び、宗門からの独立を画策し始める。
一敗地にまみれた池田は、慎重に事をすすめた。
「会長を辞任してからの10年間、徹底的に『池田個人崇拝』を演出し、次第に信仰の対象は日蓮正宗の仏法なのか、池田大作個人なのか、曖昧にされてしまった。それで宗門を切っても、池田は自分への個人崇拝でやっていけるという自信を持ってしまった」
と、前出の現役幹部は悔やむ。日顕上人の踏み絵までして組織を固めると、池田は平成2年頃から突然、はっきりと宗門の批判を始めた。翌年4月の「ルノワール絵画疑惑」がまだ尾を引いていた11月、池田の目論み通り、創価学会は日蓮正宗から破門されるのである。
池田は、本山・大石寺に「池田家の墓」を残したまま、宗門と離反していった。
「池田はナンバー2を嫌って、人を育てなかった」
当時の会員は、池田を本仏と見ないまでも、本山の上人よりも偉いと思った人は多かったはずだ。それなら新たに「御本尊」を探してこなくても、池田を開祖とする在家教団に転身すればよかったのに、なぜそうしなかったのか。学会の元幹部は言った。
「小心だからです」
創価学会広報室に、「池田名誉会長の健康状態」等を問い合わせたが、「(池田が『これからは弟子がしっかりやりなさい』などとメッセージを発した)6月に聖教新聞で報道した通りです」と、木で鼻をくくったような回答ばかりである。
毎年、「財務」が2500億円集まり、「資産10兆円」といわれた学会だが、関係者によれば、「最近は聖教新聞も300万部をきったと言われ、今年の財務は1000億円集まらないかもしれません。それなのに、さらに会館をつくる話があって、会員から、もう限界だという声が寄せられています」という。戸田は人を育てたが、池田はナンバー2を嫌って、人を育てなかった。池田大作という怪物的リーダーが没すれば、学会は大海をたゆたう巨大な漂流船になりかねない。果たして、そのとき誰がこの巨大船の舵を取るのだろうか。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)