輪島を離れ避難生活「将来が不安…」 埼玉の青空には希望も

能登半島地震の発生から約2カ月。埼玉県本庄市内で避難生活を送る石川県輪島市の保下(ぼうした)正明さん(67)らの家族が4日、本庄市役所で記者会見した。孤立した集落から自衛隊のヘリコプターで救助されるまでの経緯を生々しく語る一方で、「これからどうしたらいいのかはっきり見えない。弱っています」と将来への不安を吐露した。
会見したのは、正明さん、マチ子さん(65)夫妻と、長女で切り絵作家の真澄さん(39)=東京都在住=の3人。夫妻は輪島市中心部から7キロほど離れた山間部の別所谷地区で、マチ子さんの母友子さん(88)と3人で暮らしていた。
地震のあった元日、夫妻は帰省中の真澄さんとともに、60キロほど離れた七尾市のショッピングセンターに出向いていた。店内に入ったとたん大きな揺れに見舞われた。
「ただごとでない」(真澄さん)と、車にとって返し、自宅に戻ろうとした。心配なのは一人で留守番している友子さんのこと。電話はつながらない。募る不安。だが、がれきで車はパンクし、車中泊を余儀なくされた。
自動車整備士だった正明さんが応急処置し、翌2日午前6時に出発。いつもなら1時間少々で着くのに、別所谷の入り口まで約6時間かかった。道路は至る所で隆起し、地滑りで大きな岩が転がっていた。最後の2キロは寒風が吹きすさぶ中、川沿いをひたすら歩いた。
友子さんは、自宅近くの民家にしつらえられた臨時の避難所にいた。「大きな揺れでストーブだけは消そうと思った。その後、どうやって逃げたか覚えていない」と震えながら話したという。正明さんは「35年ローンの支払いが終わったばかりの自宅は、基礎部分が破砕され傾いていた」と肩を落とした。
3カ所の民家が即席の避難所になり、住民88人が肩を寄せ合った。電気はつかず携帯電話も通じなかった。道路は寸断され集落は孤立していた。翌3日、古老の話で、みこしが行き来していた山道を思い出し、男たちがルートを確保。2日後、ようやく物資が届くようになった。「お年寄りはトイレを考え、水分を取るのを控えていました。見る間に疲弊し気落ちしていった」(マチ子さん)
救助されたのは1月6日。みぞれが降りしきるなか、自衛隊のヘリにつり上げられた。2泊分の下着が入った手荷物、そして、飼い猫の「ひめ」。自衛隊員は「猫もどうぞ」と言ってくれた。マチ子さんは、その瞬間を思い起こすだけで涙がこみ上げてくる。
真澄さんの縁をたどって本庄市の市営住宅に入居したのは同月17日のこと。今はそこを出て、庭のある借家に引っ越した。友子さんはふさぎ込むこともあるが、慣れ親しんだ畑仕事を楽しみに土作りにいそしんでいるという。
今年から区長を任される予定だった正明さんは、別所谷の被災者と今もLINEで連絡を取り合う。皆、慣れ親しんだ地元に戻るか悩んでいるという。正明さん自身も「自分の年齢を考えると、家を建て直して生活再建するのは厳しい」と話す。
93歳になる実父も岩手県で避難生活を送っている。「将来が……ね」。不安を拭い去ることはできない。それでも、言い聞かせるような口調で言った。「(曇り空の多い日本海側と違って)本庄の青空を見るだけで、気持ちも前に向く。きょう、ご近所のあいさつに回ったのですが、皆いい人でした」。本庄での生活に期待を寄せているようだった。【隈元浩彦】