日本統治時代の台湾で生まれ育った台湾人3人が日本国籍の確認を求めて起こす訴訟に、原告として名を連ねる農業技術者の楊馥成(ようふくせい)さん(97)。
日本人として育ち、先の大戦では軍属として食料確保などに従事した。歴史の波に翻弄された人生だが、日本人としてのアイデンティティーは見失ったことはない。「最期は日本人として死にたい」と願うだけだという。(矢田幸己)
大正11年、旧台南州の農家に5人きょうだいの次男として生まれた。旧日本名は大井満。姓は生家の地名にちなみ、名には井戸の水が満ちるように、との意味が込められた。
学校では、日本語を主とする初等教育を受け「日本人の先生によくかわいがってもらった」。本土と同じく「修身」の科目があり、幼少期から日本人としての素養を身につけた。
台湾から夏の甲子園大会に出場し、準優勝を遂げたことで知られる嘉義(かぎ)農林学校(現・国立嘉義大学)を経て、州の農林技士に。ある日、新聞広告の「軍属募集」が目に留まった。外地の台湾では当時、特別志願による募集があり、「いずれ軍に行くのだから」と応募。50人枠に約千人が殺到する中、合格した。
戦時中は第7方面軍の補給部隊に配属。食料確保のため、シンガポールで10ヘクタールもの牧場を耕し、野菜を作るなどした。「軍属とはいえ、日本のためを思って働いた」
終戦後、台湾へ復員し、農林関係の仕事を再開した。しかし、中国大陸から台湾へ移った蒋介石・国民党政権の異端分子との嫌疑をかけられ、1950年8月に投獄された。獄中生活は7年に及び、激しい拷問で奥歯が2本欠けた。「私は罪を認めず耐え続けたが、多くの同胞がいわれなき罪で虐殺された。貴重な青春時代を奪われ、灰色の7年だった」
日本政府は昭和27年、国民政府との間で日華平和条約を締結。日本の最高裁判決によると、同条約の発効(同年8月)をもち、台湾出身者は日本国籍を失ったとされる。祖国に見放されてしまったとの喪失感と「母国を持ちたい」との思いが募る。
先の大戦で日本統治下の台湾から戦地へ赴いた日本軍人・軍属は20万人以上。うち約3万人が命を落としたとされる。日本統治は功罪両面だが、独裁政権による戦後の戒厳下とは「比べるまでもない」とこぼす。
歴史の波に翻弄された97年の人生。それでも、日本人としてのアイデンティティーは忘れたことがない。「過去は取り戻せない。ただせめて、最期を日本人として迎えることができれば」と願っている。