〈 「遺体は川に浮かんでいた」海外エアライン勤務の27歳女性が「怪死」、一体何が…? 被害者の“男友達”が注目された時代背景 〉から続く
今から66年前。1959年3月10日、東京都杉並区の善福寺川で英国海外航空(BOAC=現・ブリティッシュ・エアウェイズ)に勤めていた武川知子さん(当時27歳)の遺体が発見された。「スチュワーデスが殺された」と事件がセンセーショナルに報じられる中、捜査は難航。しかし、意外なきっかけで動き出し……。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の2回目/ 続き を読む)
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テレビで神父の「手配」を知る
捜査は暗礁に乗り上げたように見え、ニュースは小さくなり、やがて新聞紙面から消えた。そして再び紙面をにぎわすようになるのは予想外のきっかけからだった。
日本の本格テレビドキュメンタリーの元祖といわれる「日本の素顔」というNHの番組があった。1957年に放送スタートし、水俣病被害をはじめ、それまで知られていなかった社会的な問題を映像で伝える日曜夜の30分番組だった。「皇太子ご成婚」の翌々日、1959年4月12日放送分は「在日外人」。
「カメラが横浜の入国管理事務所(現東京出入国在留管理局横浜支局)の内部を映した時、神父の写真がクローズアップされたのだ。神父の出国をおさえるための手配写真だった」と「週刊明星」6月14日号は書く。壁に貼ってあった写真を知らずに映してしまったようだ。
同誌の記事は事件を追う報道陣の動きを捉えており、「これで捜査本部も神父にピントを合わせていることが明らかになった」と書いた。記事によれば、新聞各紙も神父をマークしていた。
「週刊平凡」6月18日号掲載の各社記者座談会では、1人が「神父の名前ははじめから(被害者の)交友関係の名簿にあった」と言うと、別の1人が「確か(3月)18日か19日ごろに当たっている」と語っている。そして――。
「捜査線上に外人浮ぶ スチュワーデス殺し 聖職のベルギー人 呼び出し? 事件後姿消す」。こんな見出しの特ダネ記事が社会面トップで載ったのは4月18日付毎日新聞(以下、毎日)朝刊。主要部分は次のようだった。
捜査線上に浮かび上がった“聖職のベルギー人”
〈 高井戸署捜査本部は、顔見知りの犯行とみて知子さんの交友関係を洗っていたが、17日に至り、聖職にあるベルギー人(37)が浮かび上がった。さる7日ごろから所在が分からず、本部では極秘裏に入国管理局に手配。海外への渡航を警戒して行方を追っている。〉
捜査本部が疑いを持っている点として、以下の5つを挙げた。
〈(1)知子さんがいなくなった3月8日昼ごろから10日にかけてのアリバイがはっきりしない
(2)知子さんとは昨年夏ごろから親しい関係にあり、知子さんが勤めていた聖オディリアホームにも出入りしていた。彼女がBOACに入社後、ロンドンで研修を受けていた際、毎週のように新聞を送るなどしていた
(3)知子さんがいなくなる2日前の3月6日、下宿先にベルギー人聖職者が関係している宗教出版社から速達便が届いた。知子さんを呼び出す内容とみられ、知子さんは出かける時、持って出たらしいが、所持品から発見されていない
(4)事件当夜、現場付近に停車していたとの目撃情報がある黒塗りのルノーを所有している
(5)現場付近の地理に詳しい〉
記事は最後に「現在のところ、状況証拠だけで決め手はないが、いままでの容疑者は全員「シロ」で、捜査線上に残った最後の男であることは間違いない。さっぱり行方がつかめないので、国外に渡航したとも考えられる」という「捜査本部の話」を載せている。
しかし、彼は海外に渡航してはいなかった。約1カ月半後の5月6日付夕刊各紙は「ベルギー人神父に出頭求む 重要参考人として」(朝日新聞。以下、朝日)、「特に親しかった付合い」(毎日)、「任意同行こばむ」(読売新聞。以下、読売)などの見出しで一斉に実名を出して報じた。いまでは極めて特殊なケースでなければ考えられないが、当時はまだ被疑者の人権に対する意識が低かった。
3紙ではわずかずつ表記が異なるが、毎日が記述し、のちに統一される「ベルメルシュ」でまとめる。朝日の記事を要約しよう。
警察本部が事件直後から目をつけていた男
〈 高井戸署捜査本部はこれまでの調べから、東京都杉並区八成町、ドン・ボスコ修道院のベルギー人、ルイス・ベルメルシュ神父(38)が事件に関係があるのではないかとして5日、事情を聴くため、本部員が修道院を訪ねて任意同行を求めた。しかし、同神父と教会側は「教会内なら構わないが、警察に行って事情を聴かれるのは困る」と断ったため、この日は事情聴取ができなかった。本部は事件直後から、同神父が知子さんと親交のあった人物の1人として関心を持っていた。事件解決のため、今後も引き続き出頭を求め、これまでの捜査で残された最後の重要参考人として事情を聴かなければならないとしている。〉
記事は神父の身上と被害者との関係も記述している。
〈 捜査本部の調べでは、同神父はドン・ボスコ修道院にいて、同院の事業の1つである国電(現JR東日本)四ツ谷駅前のドン・ボスコ(出版)社との連絡を受け持ち、同出版社の会計係をやっていた。知子さんが聖オディリアホームに勤めていた昨年夏ごろ、カトリック関係の書物を探してやったことから知り合いになり、それからは神父が聖オディリアホームを訪れることもあって親密な交際が続いていたという。本部は事件発生直後、知子さんの手帳に神父の名前が書いてあった事実をつかみ、本人から事情を聴いたりしたが、神父はアリバイを主張。修道院関係者も同調している〉
アリバイとは3月8日、9日とも調布市の神学校の儀式に参加し、夜になって修道院に帰ったという主張。記事の末尾には「非常に難しい事件。調べたい人があり、いずれも参考人の段階だ」という新井裕・警視庁刑事部長の談話と、「(神父は)この事件とは全く関係のないことがはっきりしているので、何も言うことはない」という修道院側の話が載っている。
ドン・ボスコ社は、世界各国に教会、修道会、学校などを持つカトリックの一派サレジオ会の社会事業団体で、キリスト教関係書籍の出版などをしている。
ジョン・A・ハードン編著『現代カトリック事典』(1982年)はサレジオ会について、「聖ヨハネ・ボスコ(1815~1888)が(イタリア)トリノ市の近くで1859年に創立したサレジオの聖フランシスコ修道会(17世紀に活躍した聖人フランシスコ・サレジオにちなんだ団体)。主要目的は学校や職業訓練施設で青少年を教育・育成すること。宣教地でマスコミ関係分野でも活動している」と記す。「ドン・ボスコ」もこの聖者の名前を取ったのだろう。
「清貧」「貞淑」「従順」
事件とベルメルシュ神父のその後を追った大橋義輝『消えた神父、その後』(2023年)によれば、神父の本名はルイス・チャールズ・ベルメルシュ。1920年7月、ベルギー北西端の北海に近いオーデンブルクという小都市で富農の長男として生まれた。哲学や日本の神道に関心があり、聖職の道へ。ベルギーのカトリック教会に入り、1948(昭和23)年5月に28歳で日本のサレジオ会に派遣された。1953年に司祭の資格を得てドン・ボスコ社の会計主任に。同社が発行するカトリック系雑誌の編集にも携わるほか、日曜日は聖オディリアホームのミサも担当していた。
「週刊朝日」6月7日号は「“受難”のベルメルシュ神父」の見出しで「できるだけ客観的に」事件と神父の周辺を報じた。それによれば「修道生活は犠牲と苦難の連続」という。洗礼を受けてから神父になるまで、1年間の修業期間に次いで3年間の誓願期があり、「清貧」「貞淑」「従順」の3つを誓わなければならない。
神父の日常は「朝は5時に起床。朝食後に1時間の黙想と1時間のミサを行う。病院で看護婦の下働きをやらされたりする。手紙を出すにも、たばこを吸うにも、いちいち院長の許可が要る。従順の誓いを錬磨するためだ」と書いている。神父は一生独身を義務づけられていた。
“伝説の名刑事”が捜査を担当
この事件の捜査については、「吉展ちゃん事件」で知られる「警視庁伝説の名刑事」平塚八兵衛の談話を記録した比留間英一『八兵衛捕物帖』(1985年)と佐々木嘉信著・産経新聞社編『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(2004年)がある。突き合わせると概略は次のようになる。
〈事件が発覚すると、捜査一課長から「2号(当時、捜査一課強行犯係は「小部屋」に分かれていた)でやってくれ」と言われた。被害者が誰かは当初分からなかったが、上着のポケットに入っていた「伊勢丹」のマークから身元が判明した。それからベルメルシュ神父が浮上するのには時間がかからなかった。
刑事がBOACに入ってからの同僚に話を聞くと、ロンドンでの研修中、被害者は「お世話になっている神父さんに何を送ったらいいだろう。神父さんはよくルノーを運転しているので手袋にしようか」と言っていた。東京から届いた大きな封筒には「ドン・ボスコ社」と書いてあった。被害者が3月8日に出かける前に届いた速達便にも同じ名前が書かれていたので、2人の刑事がドン・ボスコ社に行くと、3人の神父が出てきた〉
そのうちのベルメルシュ神父とのやりとりを『八兵衛捕物帖』はこう書いている。
〈刑事「お宅の会社から武川さんに速達が出されているが、どなたが出したんですか?」
神父「私が出したんです。武川さんはいい信者でした」
刑事「武川さんとお会いになったのは、いつごろですか?」
神父「『ロンドンから帰ってきたので会いたい』と3月5日に電話があって、その日に原宿駅前で会い、車の中でいろいろ話しました」
刑事「どんな話を?」
神父「ロンドンの話です。その時、BOACに自宅の地図を出すように言われて困っているというので、私が描いてあげると約束し、それを速達で送ったんです」〉
「被害者が外国人男性とホテルへ」「神父だと確信」
〈話している間、神父は「武川さんがどうしたのですか?」と何度も聞くので、死んだことを知らせると「ほう、死んだのですか」と言ったが、驚いた様子はなかった。「あなたはどこに住んでいるのですか?」と聞くと「この2階です」と返答。「皆さん、一部屋で寝るのですか」という問いにこう答えた。「アリバイはありますよ。10日は5時に起きてミサをしていました」。
平塚はベルメルシュ神父の捜査専従になった。捜査本部は刑事48人を動員し、原宿駅周辺の旅館・アパートを徹底捜査。1月に被害者が外国人男性とホテルに一緒に入ったことが判明した。捜査本部はベルメルシュ神父だと確信した〉
〈本人の取り調べのため、記者に気づかれないよう目立たない場所を探し、浅草の刑事部菊屋橋分室に決定。新聞休刊日(翌日の朝刊が休刊)の5月5日朝、平塚ら刑事2人がドン・ボスコ修道院に向かった〉
ところが、「報道陣は既にその動きを察知していた。D社前のやぶの中にカメラの放列が敷かれている」(『八兵衛捕物帖』)。「週刊平凡」6月18日号の座談会では、各社の記者とも「『うちだけか』と思っていたら、ほかも来ていた」と話している。神父と修道院側は強硬な態度で教会外での取り調べを拒否。この日の事情聴取はできなかった。
「やましいことはない」と否定
ベルメルシュ神父はその後も出頭を拒み、5月7日付産経新聞(以下、産経)朝刊では、記者に「私は事件とは無関係。知子さんのことはよく知っているが、神父と信者の関係にすぎない。私にやましいことはない」と語っている。結局、ベルメルシュ神父は5月11日に出頭。事情聴取を受けたが、アリバイを主張し、被害者と交際があったことは認めたものの、肉体関係は頑強に否定した。
12日付朝刊では読売が初めて神父の顔写真を掲載した。聴取は12日、13日、さらに20、21日両日も行われたが、供述は変わらなかった。『刑事一代』で平塚はこう述懐している。
神父は供述で…「一切日本語を使わねぇんだよ」
〈 通訳が間に入って調べを始めたが、どうしても呼吸が乱れちまうよな、外人相手では。調べってのは、ホシと対決しながら、言葉のニュアンスや表情を読み取りながらやるもんだ。神父は日本語は百も承知でペラペラだよ。それが、一切日本語を使わねえんだよ。微妙な点になると、「迷惑をかけてはいけないから」と、わざわざ辞書を引いてから答えるわけだよ。調べの時間も、午前10時から午後5時までに、あらかじめ約束してあったんで、時間が来るとピタリやめなけりゃならねえ。
オレはつくづく思ったよ。言葉の通じないのは、何としても乗り越せないと。
“落としの八兵衛”と言われても、さすがに調子が狂って勝負にならなかった。〉
事情聴取の間、神父は血液型の検出を警戒してか、飲み物などには一切手をつけなかったという。
5月24日付朝日朝刊トップには「入院したベルメルシュ神父」の見出しが。「22日、過労による疲労が激しく、新宿区下落合の聖母病院に入院した。しかし捜査本部は、同神父が事件に関係があったかどうかについてはまだ断定せず、『調べは完全には終わっていない』と言っており、教会側との間には微妙な空気が漂っている」とした。しかし、当時の小倉謙・警視総監は27日、「事情聴取は一応終わった。近くまた出頭を求めることはないと思う」と語った(28日付朝日朝刊)。
駐日ローマ法王庁公使も潔白を訴えた
この間、神父はベルギーにいる両親に手紙で「潔白」を訴え(5月24日付朝日夕刊・ブリュッセル発ロイター電)、駐日ローマ法王庁公使は朝日の質問書に対して「本人に代わって潔白を断言する」との回答を寄せた(5月26日付朝日朝刊)。
6月1日付毎日朝刊は、同紙の質問書に神父から回答があったことを伝えた。回答は事件に直接触れず、「私のことについて、想像だけに任せ、行き過ぎたことを話したり書いたりした人々に対してさえも、私は何の恨みも抱きません」とした。膠着状態が続く中――。
「ベルメルシュ神父が帰国 警視庁はショック」(朝日)、「捜査本部に通知なし 理由は病気療養」(毎日)、「スチュワーデス殺し迷宮入りか 解決の手がかり失う」(読売)、「昨夜エールフランス機で」(産経)……。6月12日付夕刊各紙の社会面トップにはこんな見出しが躍った。
〈 《27歳女性が変死》重要参考人のベルギー人神父が消えた…世間を揺るがせた「BOACスチュワーデス殺人事件」今も残る“大きな謎” 〉へ続く
(小池 新)