3月11日、選挙プランナーの藤川晋之助氏が亡くなった。“選挙の神様”として知る人ぞ知る存在だった藤川氏だが、2024年の都知事選で知名度が急上昇。石丸伸二氏が約165万票を獲得した裏側では、藤川氏の多大なる貢献があったとされる。「文藝春秋PLUS」に掲載されたインタビューでは、藤川氏が自身の原点を語っている。
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政治の世界に入って愕然とした
「政治」に目覚めたきっかけは、中学3年の時に起きた東大安田講堂事件です。大学でも政治活動に没頭し、サラリーマンを経験した後、23歳で、三重県選出の自民党田中派代議士の秘書になりました。ところが実際に政治の世界に入って愕然としました。学生時代にあれだけ熱く議論した安保や憲法や天皇制などは全く話題にならず、政治とは「予算の分捕り合戦」であり「利益分配」だと分かったからです。
そんな失意のどん底にあって、何も知らずにいきなり関わったのが選挙です。市議会選、県議会選、衆院選を次々に経験しました。私自身はほぼ傍で見ていただけですが、当時の選挙は今とは違って大いに盛り上がり、まるで「お祭り」。「日常」ではなく「非日常」の世界。非常に燃えるんです。人生に目標をなかなか持てない時代に「これは面白いな!」と。しかもそこで勝利に貢献すれば、人のお役にも立てる。それで「選挙」にはまっちゃったんです(笑)。
〈こう語るのは、2024年7月の東京都知事選で「石丸旋風」を巻き起こし、約165万票を獲得した石丸伸二氏の陣営で選対事務局長を務め、「選挙の神様」の異名も持つ藤川晋之助氏(70)だ。藤川氏は、大阪市議を2期務めた後、「選挙のプロ」として144回の選挙に関わり、負けたのはわずかに14回。2023年には「藤川選挙戦略研究所」を立ち上げている。都知事選は当初、小池百合子氏と蓮舫氏の事実上の“一騎打ち”と見られていたが、石丸氏は驚異的に躍進し、蓮舫氏の得票を上回った。〉
選挙は「お祭り」だった
代議士秘書時代にお手伝いした選挙は、私の“選挙戦歴”に入れていませんが、田中派は選挙に強いということで、いろんな選挙を手伝わされました。そこで都市と地方で選挙が全く異なることも学びました。
当時の選挙費用は今の10倍ぐらいあって、衆議院選挙では「5当4落」と囁かれていました。4億なら落ちるが5億なら通る、という時代だったんです(笑)。今では選挙違反になりますが、「炊き出し」もありました。婦人部のおばさんたちが集まって、トンカツやカツ丼をつくって、「カツで選挙に勝つ!」と縁起を担ぐ。一番多い時は1日で1500人分提供しました。当然、お金はかかりますが、和気藹々と大勢で一緒に食べる。そうやって皆で選挙をお祭りのように楽しんでいたんです。
それが小選挙区制になると、選挙にかける費用も10分の1ぐらいになってしまい、「炊き出し」も公職選挙法で禁じられました。しかし「あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ」では、選挙はつまらないものになる。
秘書として政策も勉強しましたが、選挙で鍛えられたことが、私には何よりも大きな糧となりました。
とにかく田中派の基本は「地上戦」。いまは「空中戦」と「ネット戦」が主流ですが、当時は、歩いて歩いて握手した分しか票は入らない。田中角栄先生自身がそう繰り返していて、「5万件の戸別訪問と3万件の辻説法」が基本でした。今そんなことをやれる議員はいないでしょう。
やっぱりあの情熱はすごかった。日本人全体が元気だった時代のこととも言えますが、こんな経緯で選挙に深く関わることになり、気づいてみたら、意図せず“選挙一筋の人生”となっていました(笑)。
※本記事の全文(約7500文字)は「文藝春秋PLUS」に掲載されています(藤川晋之助「 都知事選165万票 選挙参謀も驚いた石丸ミラクル 」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・選挙参謀をなぜ引き受けたか
・ボランティアに支えられた
・選挙は“構図”で決まる
・「公約選挙」が政治不信を招いた
・「石丸氏の今後」へのアドバイス
・公職選挙法が民主主義を阻害
(本稿は「 文藝春秋 電子版 」で配信された オンライン番組 をもとに記事化したものです)
(藤川 晋之助/文藝春秋 2024年9月号)