「コロナウイルス…?」。2020年2月3日、神奈川県に住む多岐沢よう子さん=仮名、(79)=は、大型クルーズ船内の放送で、初めてその感染症の名を耳にした。既に下船した乗客の陽性が判明したとのことだった。同室の夫茂男さん=仮名、当時(75)=も、数日前からせきをしていた。 その後、横浜沖に停泊した船内で大規模な集団感染へと突き進むダイヤモンド・プリンセス。感染者は712人に上り、亡くなった13人のうち1人は、茂男さんだ。体調が悪化する中、助けを求め続けたが、救われなかった。5年前、日本国内に新型コロナウイルス襲来の衝撃を与えた豪華客船で、何が起きたのか―。(共同通信=桂田さくら)
※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。
▽幸せな船旅は監獄に
船が横浜沖に停泊を開始した2020年2月3日によう子さんが船内で書いた日記。「コロナウイルス?」と記されている=2025年1月、神奈川県
よう子さんと茂男さんにとって、船旅は結婚記念日のお祝いだった。1月20日に横浜港を出発し、アジアの国を巡って、2人でたくさん写真を撮った。記念日当日の2月4日には横浜へ戻り、下船するはずだった。 しかし、その前日の3日、船内で新型コロナ感染者の発生がアナウンスされた。糖尿病の持病も抱えていた茂男さんは、せきと胸の苦しさの症状を訴えて、医務室で受診した。その時の体温は36度台で、いったん様子見となった。船は横浜沖に停泊することになり、2週間の船内待機が決まった。
2月3日に客室へ配られた、新型コロナウイルスの感染者発生を知らせる「健康に関するご案内」(右)と、4日の船内イベントの案内(左)。すぐに対策はとられず、通常通りコンサートなどが行われた=2025年1月、神奈川県
7日に配られた体温計で測ると、茂男さんの熱は38・2度。発熱時は申告するよう指示されていたが、よう子さんが何度医務室に電話しても、取り合ってもらえない。「なんで対応してくれないんだろうと、もどかしかった」。8日には医師が客室を訪れて検体を採取したが、解熱剤の処方すらなかった。
よう子さんの2月8日の日記。夫の体温や、医務室に繰り返し電話した状況が記録されている=2025年1月、神奈川県
その後も38~39度台の高熱が続いた。しかし何度電話しても状況は変わらない。「機械的に、手いっぱいだと言っているように感じた」。耐えかねたよう子さんが医務室に駆け込もうと廊下に出ると、屈強な見張りの乗員に制された。「部屋に戻れ」。まるで監獄のようだ、と絶望した。
▽最後の会話
「ダイヤモンド・プリンセス」から離れる感染者を乗せたとみられる救急車=2020年2月7日、横浜・大黒ふ頭
10日に客室を訪れた医師が、血中酸素濃度を測るパルスオキシメーターで茂男さんの指先を挟み、顔色を変えた。「直ちに支度を」。病院へ搬送されることになり、茂男さんとは離れることになった。それでも、よう子さんは、茂男さんが回復して家に帰ってくるものと疑わず、服や靴、現金をリュックに詰めて、医師に渡した。 慌ただしい搬送の後、病院に着いた茂男さんから電話がかかってきた。「重篤だと言われたよ、先生に代わるね」。たった一言、それが夫との最後の会話になってしまった。その後、よう子さん自身も感染が判明し、他県の病院に搬送された。
よう子さんが入院中、茂男さんの病院から電話がかかってきた。自発呼吸が停止したとの知らせだった。しかし自分自身も感染し、隔離されている。陰性が確認されるまでは駆けつけることもできない。もどかしい日々を過ごした。
そして2月末、茂男さんの病院を訪ねた。病室のガラス越しにようやく再会できた茂男さんの意識はなく、人工呼吸器や人工心肺装置で全身管だらけ。変わり果てた姿にぼうぜんとして、涙も出なかった。担当する医師から、搬送時には既に肺が真っ白だったと聞かされた。
▽夫のを伝った涙
その後も回復の兆しが見えないまま3月になった。急に血圧が低下したと病院から呼び出され、看護師から「何か、かける言葉はありませんか」と聞かれた。夫婦の間だけの愛称がとっさに口を突いて出た。「ジョン」。以前一緒に買いに行った眼鏡が、ビートルズのジョン・レノンのような丸眼鏡だったので、そう呼んでいた。 ガラス越しの夫に付き添う看護師に「ジョン、愛しているよ」と伝えてもらうと、涙が茂男さんのを伝った。その瞬間、胸が押しつぶされそうになった。「うれしかったし、同時に悲しかった」。言葉も発することができず、孤独に苦しんできた夫の気持ちを想像し、涙があふれた。
▽ぬくもりのない別れ
よう子さんの自宅に飾られた茂男さんの写真=2025年1月、神奈川県
そして3月22日、茂男さんは亡くなった。最期の別れに、看護師が持ち上げてくれた茂男さんの手とよう子さん自身の手をガラス越しに合わせた。ぬくもりはなく、無機質な感触だけがあった。茂男さんの兄の到着を待つことは許されず、すぐにジッパー付きの袋に入れられ、二度と開けることはできなかった。
心の整理をする間もなく、病院が手配した火葬は、その翌日。最小限の人数にと指示され、茂男さんの兄と親しい友人の3人で見送った。火葬場では読経もなく、焼香を終えるとすぐに職員がお棺を運び、火葬炉へ入れた。よう子さんは気が遠くなるのを感じた。「こんなに悲しい別れがあるなんて」。きちんとした葬儀ができたのはしばらくした後だった。
▽検証は2ページのみ
搬送時に船内で乗客へ配られたマスク=2025年1月、神奈川県
船で集団感染が発生した当時、日本政府の対応は国内外から批判された。乗客乗員に、医療体制が整っていない船内で長期間待機するよう強いたからだ。 それから3年以上たった2023年9月、国土交通省はクルーズ船での感染対策を示す「最終とりまとめ」を公表。しかしダイヤモンド・プリンセスについての検証はわずか2ページで、死者が出た事実すら記載されていなかった。よう子さんはつぶやく。「船内で死者は出さなかったかもしれないが、夫は船内の対応で死んだも同然。しっかり検証して過去の教訓から学ばなければ、また同じ事を繰り返すのではないか…」
横浜港に停泊するクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」=2020年2月19日(共同通信社ヘリから)
一方、新型コロナで一時停止していた国際クルーズの受け入れは2023年に再開した。政府はクルーズ船での訪日客を増やす目標を掲げ、港を抱える自治体も経済効果に期待する。新型コロナの5類移行後は、政府や業界団体が示した船や港の感染症対策も緩和されている。
▽失った存在の大きさ
庭の花柚子の木。皿に置いた米粒をついばむスズメを眺めるのが夫婦の日課だった=2025年2月、神奈川県
今もよう子さんは茂男さんと暮らした家に住んでいる。毎朝、庭の木にくくり付けた皿に米粒を置き、ついばむスズメを眺める。一緒に楽しんだ日課だ。居間には目を細めて笑う茂男さんの写真が飾ってある。優しくて、心の温かい人だった。よう子さんの帰りが夜遅くなった日は、近くのバス停まで迎えに来てくれた。突然失った存在の大きさを、日々の生活の至る所で感じている。
夫の命はなぜ救われなかったのか。天災ではなく人災ではないか。消えない怒りや悲しみとともに、船の中で起きた事を記録に残そうと、手記を出版した。タイトルは「別れへの船出」。
よう子さんは、新型コロナ禍初期の混乱の中で失われた命の存在を、もっと知ってほしいと願う。「何年たっても過去のことにならない。もしも自分の大切な家族に同じ事が起きたら、と考えてみてほしい」