元ひめゆり隊の経験を語り続けた母、その活動を支えた長男…講演きっかけに関連本の出版も

太平洋戦争末期の沖縄戦で生き残った元ひめゆり学徒隊員・与那覇百子(ももこ)さんが昨年11月、96歳で亡くなった。「悲惨な経験を若者に伝えたい」と1970年代から30年余り暮らした埼玉県桶川市を拠点に全国各地で講演した。会場への送迎などで母親の活動を支えた長男・満さん(71)に思いを聞いた。(佐伯和宏)
与那覇さんは今の那覇市で生まれ、沖縄師範学校在学中、学徒隊に動員された。著書「生かされて生きて」(道友社)によると、病院で看護に携わったが、45年6月18日、隊は解散され、海岸の洞窟に逃げた。
その場で兵士が手投げ弾で自決しようとした。「出ていかねば叩(たた)き切るぞ!」。別の兵士の叫び声に追われて洞窟を出て、米軍の捕虜になった。沖縄戦では学徒隊員136人と姉2人を亡くした。
戦後、与那覇さんは東京に移り、身内以外に過酷な経験を語ることはなかったという。満さんによると、自宅の購入をきっかけに桶川市に転居した後、勤め先の病院の同僚が沖縄戦について知らないことに驚き、語り部の活動を始めたという。
満さんは小学生の時、父母に連れられて沖縄を訪れ、学徒を慰霊する「ひめゆりの塔」を見た。その後は精力的に小中学校を回り、体験を話す母を支えようと、会場までの移動や出版する本の推敲(すいこう)を手伝った。
「銃撃を思い出すのか、母は花火に行かなかった」「キュウリもみを運んでいた学徒が銃撃で死亡したそうで、キュウリもみは食卓に出なかった」
満さんは母の姿をそう周囲に伝えている。好きな習字の教室に通うのもやめて、講演を続けていたという。
与那覇さんは2004年に沖縄に戻った後、ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)で証言員を務めた。満さんは「母は事実を淡々と話した。平和の大切さ、戦争の悲惨さを私も訴えたい」と思っている。

与那覇さんの講演を聞いて感銘を受け、劇画「ひめゆりたちの沖縄戦」を出版した中沢秀夫さん(75)の話
「楽天家で、出版の打ち合わせをした時、『沖縄戦から帰ってきた時、かすり傷もなかった』と話していた。戦争は今も各地で続いており、体験を訴え続けてほしかった」