神奈川県相模原市の山間にある相模湖。釣りやボート、冬はイルミネーションでにぎわう観光地だ。相模ダムは、県内に電気や水道を供給する貴重な水がめとなっている。湖とダムを造る戦時中の建設工事では、朝鮮人や中国人捕虜が強制動員され、日本人学徒を含む多くの労働者が命を落とした。 そんな歴史が「攻撃」を受けたのは2020年のこと。ダムの歴史や犠牲者の名前を刻み、県が設置した「湖銘碑」が、何者かに傷つけられた。傷があったのは「当時植民地であった」「連れてこられた」と書かれている部分だ。
湖のほとりで育った橋本登志子さん(75)はこの事件が起きる半世紀近く前から、地元有志で市民団体「相模湖・ダムの歴史を記録する会」をつくり、ダム建設の実態を調査。歴史を語り継いできた。 橋本さんは語る。「日本にとって都合の悪い歴史でも、なかったことにしてはいけない」(共同通信=奥林優貴)
▽何かに怒っていた中国人
相模ダム=2024年12月
橋本さんがダムの歴史に関心を持ったきっかけは、20代の頃に訪れた中国での出来事だった。ある農村を訪れた際、他の日本人とバスを降りると、1人の老人が近づいてきた。 「突然私たちに大声で何かを叫んできたんです。片目がなくて、身ぶり手ぶりで怒りをぶつけているようでした」 通訳に尋ねたが「方言が強くて分からない」。老人は周りにいた中国人に連れて行かれ、会話はできなかった。日本が中国を侵略した歴史は漠然と知っていた。「この人もその被害者の1人かもしれない…」。戦時中、日本人が中国に何をしたのか、考えざるを得なくなった。
建設業の父親から幼い頃に聞いた話を思い出した。「昔、相模湖で中国人が働かされていた」。気になって町の資料を調べたが、そんな話は出てこない。 「もし自分の足元に強制連行の歴史があるなら、ちゃんと記録すべきではないか」
中国での聞き取り調査に参加した橋本さん(中段、右から4番目)=1996年8月(相模湖・ダムの歴史を記録する会提供)
地元の教員ら有志を集め、1976年に「相模湖・ダムの歴史を記録する会」を発足。公文書の調査や、ダム建設に携わった当事者らへの聞き取りで、事実を明らかにしてきた。
▽軍需工場に水と電気を
相模ダムの工事現場=1946年8月
建設が始まったのは、日中戦争中の1940年11月。工事は熊谷組が請け負った。 神奈川と朝鮮の関係史調査委員会編著「神奈川と朝鮮」によると、戦時下での軍需産業の拡大による電力不足の解消や、工業用水の確保が最大の目的だった。軍需工場が集まる京浜工業地帯へ、水や電気を送ることが想定された。 1943年11月付の県の資料では、完成に延べ約350万人の労働力が必要と見込まれていた。 熊谷組社史には戦時下に各地で請け負った工事に関し「現場就労者の六割も七割も朝鮮人というときもあった」とある。
当時、日本は韓国併合によって朝鮮半島を植民地支配していた。「相模湖町史 歴史編」にはこうある。 「労働力不足を補うために国と業者によって朝鮮人と中国人労働者が動員された」 「朝鮮人強制連行労働者と中国人連行労働者は監視され、厳しい労働に耐えなければならなかった」 「朝鮮人労働者はすでに日本国内に渡航し働いていた在住朝鮮人と、新たに朝鮮から連行してきた人々で成り立っていた」
▽忘れられない「哀号」とゆがんだ顔
工事中の相模ダム=1946年8月
「記録する会」がまとめた「相模湖(ダム)の歴史―強制連行の証言記録―」によると、朝鮮半島から連れてこられた朝鮮人は「マル募」と呼ばれ区別された。宿舎は高い壁で囲われ、監視役が置かれた。熊谷組の下請けをしていた日本人の証言が載っている。 「私の組で働いていた朝鮮五名が逃亡し、(中略)山狩りし、二人捕えた。折かんのときの『哀号、哀号』と叫んで歪んだ顔を忘れられない」 韓国語のアイゴーは、泣くときなどに感情を込める言葉だ。
前述の「神奈川と朝鮮」には、朝鮮人労働者の妻の証言もある。 「食事はひどく粗末だし(中略)一番危険な仕事をやらされたのはいつも朝鮮人だった」 ダムの完成は終戦後の1947年6月だった。
▽市民と県が建てた「湖銘碑」
県が設置した「湖銘碑」の碑文=2024年12月
「記録する会」の調査が進み、中国人捕虜の具体的な動員数や犠牲者数は分かったが、労働力の要だった朝鮮人については、なかなか資料が見つからなかった。熊谷組にも尋ねたが「出面(出勤簿)は全て焼けた」。
そこで「記録する会」は「史実に沿った碑の建立」を求め、ダムを管理する県に要望。10年以上の交渉の末、1993年に湖畔の県立公園に、当時の県知事名で「湖銘碑」が設置された。 調査などで判明した日本人、朝鮮人、中国人83人の犠牲者の名前が刻まれ、ダム建設の歴史もハングルと中国語を含む3カ国語で記した。2020年には、県が日本語と英語を併記した説明板を新たに設置した。
▽存在を否定されたよう
何者かによって傷つけられた説明板=2020年8月(相模湖・ダムの歴史を記録する会提供)
だが、説明板設置のわずか5カ月後、事件は起きた。「当時植民地であった朝鮮半島から国の方策によって連れてこられた方々」という文の一部が、何者かに傷つけられた。
発見したのは「記録する会」のフィールドワークで訪れていた神奈川朝鮮中高級学校(横浜市)の生徒たちだった。橋本さんが当時を振り返る。 「加害の歴史を否定したい人がいたんだろう。生徒らは『自分たちの存在も否定されたようだ』と落ち込んでいた」 すぐに県と連絡を取り、生徒らと共に修復を求める要望書を県側に手渡した。このことがネットニュースで報じられると、コメント欄には「自分たちで直せばいい」「税金の無駄遣いだ」と非難や中傷が多数書き込まれたという。
説明板は2カ月ほどで修復されたが、誰が傷つけたかは分からないままだ。その後も、ある相模原市議からは「自虐史観を植え付けている」と抗議を受けた。
▽地域全体で語り継げるように
「相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会」の様子=2024年7月(相模湖・ダムの歴史を記録する会提供)
橋本さんは「戦争を理解するには被害と加害の両面を知る必要がある。ここで引いたら相手の思うつぼだ」と、その後も活動を続けてきた。 1979年から毎年行っているのが、「相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会」。全ての犠牲者を悼んで平和と友好につなげようと、中国大使館、韓国総領事館、朝鮮総連などの関係団体や相模原市長、保守系の県議も一堂に会する。
取材に応じる神奈川県相模原市の本村賢太郎市長=2025年3月
本村賢太郎市長は3月、共同通信の取材に応じ、追悼会へ思いを語った。「反省すべき点は反省し、事実を次の世代につながないといけない。こうした歴史を広く学べるよう、教育委員会とも連携していきたい」
地域住民も一緒になって追悼会を作り上げている。朝鮮学校の生徒による朝鮮舞踊や、地元小中学生による合唱などが披露されるほか、地元在住の造形作家が総合演出を担っている。
地元中学生に向けて行われたフィールドワーク=2024年1月
追悼会に毎年参加している市立北相中学校では、1年生が2月にフィールドワークを行った。望月はる美校長は「つらい歴史があった上で、私たちが今ダムの恩恵を受けられることに考えを巡らせてほしい」と、生徒らの様子を見守っていた。
▽新たな担い手も
数年前から活動に加わっている古澤めいさん=2024年12月
戦後80年。発足当時20代だった「記録する会」のメンバーは、70代になった。そんな中、新たな担い手も。2006年に湖の近くへ移り住んだ古澤めいさん(53)だ。 学生時代、留学先のフィリピンで、日本の占領の爪痕を目の当たりにした。相模湖という身近な場所でも、時代に翻弄(ほんろう)された人たちがいると知ったのは数年前。「自分の住む町でできる限りのことをしたい」と活動に加わった。 古澤さんは2024年、近くに住む紙芝居作家いしげしょうこさん(43)と、相模湖とダムの歴史をテーマにした紙芝居を制作した。
相模湖とダムの歴史をテーマにした紙芝居の読み聞かせイベント=2025年2月
今年2月には読み聞かせイベントを企画、近隣の親子ら約20人が集まった。10歳と4歳の息子と参加した凪かおりさん(47)は「中国や朝鮮の人が犠牲になったとは知らなかった。言葉もかみ砕かれていて聞きやすかった」。 古澤さんの住む藤野地区は移住者が多く、ダムの歴史を知らない人も多い。古澤さんは、地域のイベントへの出展を増やし、「記録する会」が掘り起こした資料を誰もが閲覧できる拠点づくりにも取り組むつもりだ。
橋本さんは新たな担い手に期待を寄せる。 「若い世代は日本の戦争加害を知るきっかけがあまりない。地元で手を取り合って、正しい歴史を語り継ぐことが平和につながる」
【戦後80年連載・向き合う負の歴史(6)】に続く × × × これまでの連載【(1)県が撤去した朝鮮人労働者追悼碑は「加害の歴史」伝えるシンボルだった】【(2)フェミニズムを入り口に慰安婦問題を学ぶ若者たち―東京、5千人学ぶカフェ】【(3)集団自決の傷痕撮る沖縄の写真家「真実伝え、戦争なくしたい」】【(4)うそつき呼ばわりされても、731部隊の「本当のことを語る」―94歳の元少年隊員】