「強制的に動員」の看板を市が隠した…戦争末期の極秘計画跡地で起きたこと 住民と朝鮮人が掘った長野・松代大本営【戦後80年連載・向き合う負の歴史(10)】

長野市の中心部から南へ約10キロ、住宅や田畑が点在する地域の山腹に、今も入り口が黒い穴を開けている。太平洋戦争末期、日本は本土決戦に備え、皇居や政府機関の移転先として極秘裏に大規模地下壕の建設を進めた。その名は「松代大本営(まつしろ・だいほんえい)」。ここで歴史論争が起きたのは、2014年のことだった。

長野市は、入り口付近の案内看板で、朝鮮人労働者が強制動員され建設に従事したと説明していた部分の「強制的に」と記した部分をテープで覆い隠した。その後、強制だったかどうかを両論併記に改めた看板に付け替えた。 地元市民団体は、市に「一方的な事実の変更は許されない」などと批判するが、表記は今もそのままだ。(共同通信=奈良幸成)
▽10キロの地下壕
松代大本営の象山地下壕入り口の看板。「強制的に」と記された部分にテープが貼られている=2014年8月8日、長野市
長野市松代地区は、武家屋敷などの古い町並みが残る観光地だ。かつては養蚕業で栄え、製糸工場があった。

長野市誌(2000年発行)によると、松代大本営は1944年11月11日に着工。米軍からの空襲に耐えるよう、海岸からの遠さや岩盤の固さなどから選ばれた。終戦となった1945年8月までの約9カ月間で、三つの山に総延長約10キロに及ぶ地下壕が堀られた。
市誌第6巻「歴史編近代2」には、最大7千人の朝鮮人労働者が動員され、数は不明だが犠牲者も出たと記されている。
松代地区の三つの山に掘られた地下壕を総称して松代大本営と呼んだ
「看板事件」が発覚したのは2014年8月のことだ。看板は長野市が管理・公開している松代大本営「象山(ぞうざん)地下壕」入り口付近にあり、朝鮮人が連行された経緯などを説明していた。
▽白いテープ
長野市が朝鮮人労働者の強制動員に関する表記を変更した看板=2025年3月、松代大本営象山地下壕付近
看板にはこうあった。「…当時の金額で2億円の巨費と延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され、…」 このうち、市は「強制的に」の部分に白いテープを貼って隠した。
このことが判明すると、市民団体や在日韓国人団体などから異論が噴出した。市は、見学者らから「強制ではなかったのでは」との指摘が複数回あったと説明。研究者に意見を求めると、一部の朝鮮人は収入を得るため工事に参加していたとのことで、テープを貼ったと弁解した。
市は2014年10月、新たな看板の表記を発表。動員の強制性について「多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています」と伝聞調で説明。さらに、当時の関係資料が残っていないとして「必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります」と両論併記の形を取った。
▽目をそらすな
朝鮮人労働者の犠牲者追悼式であいさつする「松代大本営追悼碑を守る会」の表秀孝会長=2024年11月11日、長野市
松代大本営着工から80年の節目となった2024年11月11日、看板事件の舞台となった象山地下壕で、市民団体「松代大本営追悼碑を守る会」が朝鮮人犠牲者の追悼式を開いた。工事に使うダイナマイトが初めて発破された午前11時11分に黙祷をささげた。
「守る会」は、韓国で当時を知る人に聞き取りを実施したり、地下壕付近に追悼碑を建立したりするなど、歴史を掘り起こし、語り継いできた。 式典後、取材に応じた表秀孝(おもて・ひでたか)会長(84)は看板事件に関し、こう語った。 「起きたことから目をそらすのではなく、そこから何を考えるかが大切だ」
▽トロッコもろともペシャンコに
一般に公開されている長野市の松代大本営・象山地下壕=2020年6月
当時、朝鮮人はどのように松代大本営にたどり着き、どんな作業に携わったのだろうか。 守る会元事務局長の故・原山茂夫さんがまとめた書籍「松代大本営工事労働」によると、工事は西松組が請け負い、「配下」と呼ばれる親方を含め4次受けの構造になっていた。賃金や食料の配給は末端の労働者ほど少なかった。
書籍には、工事に従事した朝鮮人労働者の証言が載っている。 「野郎ども(村役人たち)が来て、有無を言わさずに家から連行されたんだ。25歳の時だった」 「何ていったって新婚早々に妻との間を引き裂かれたのが、一番つらかった」
松代大本営・象山地下壕の内部=2025年3月、長野市
山を掘削する工事の過程で、朝鮮人が死亡したとの証言も記載されている。 「ズリ(掘削で生じた岩石)をスコップでトロッコに積んでいる時に、天井から大きな岩がドシャッと落ちてきて、徴用されていた1人がトロッコもろともぺしゃんこになって死んでしまった」
日本にいる親族を頼って海を渡ったと証言する元労働者もいた。「配下」(親方)の中には朝鮮人もいたとされ、複雑な上下関係があったことがうかがえる。
▽住民も被害者
政府の機関を移す予定だった地下壕(中央付近)がある象山=2020年7月、長野市(小型無人機から)
地元住民も軍部から工事への協力を強いられ、苦しんでいた。重要施設が集まるため、長野市誌は、1945年4月に付近の村民124世帯600人超が村内外に疎開させられたと指摘。
地元住民でつくる「西条地区を考える会」がまとめた書籍「松代でなにがあったか!」によると、国民学校の生徒は勤労奉仕の名目で、岩石の搬出作業に従事させられていた。この作業に参加した住民は、当時をこう振り返っている。 「戦争が終わってみれば、地元の人たち、労働に従事した人、また私たち学生でありながら学業を顧みず勤労奉仕に従事した全ての人たちは皆犠牲者であり、被害者であったのです」
終戦翌日の1945年8月16日、松代大本営は未完成のまま、全ての工事が中断された。 ▽絆と差別
工事当時の周辺住民から証言を聞き取る原昭己さん=2024年12月、長野県中川村
松代大本営の歴史を次世代に伝えようと、地元住民の証言を集め始めた人もいる。象山地下壕のそばに立つ資料館「もうひとつの歴史館・松代」のスタッフを務める原昭己さん(72)だ。2024年10月から当時の様子の聞き取りを始めた。
原さんの聞き取りに応じ、工事当時の様子を証言する堀内正夫さん=2025年1月、長野市
2025年1月、原さんは工事開始当初に小学1年生だった堀内正夫さん(91)を訪ねた。堀内さんも工事中、軍から疎開を命じられた住民の1人。戦後、しばらく残っていた朝鮮人と交流があったという。 「父は朝鮮人と物々交換をしていた。終戦後に疎開先から自宅に引き揚げる際、労働者2~3人が荷物を運ぶのを手伝ってくれた」
原さんの聞き取りに応じ、工事当時の様子を証言する上原新さん=2025年1月、長野市
地元に暮らす子どもの間では、工事開始後に転校してきた朝鮮人児童を差別することもあったという。当時小学3年生だった上原新さん(93)は、原さんにこう証言した。「学校では、朝鮮人というだけで本当にばかにされていた」
原さんはこうした証言を地元住民と共有し、松代大本営の歴史が持つ意味を改めて考えたいと考えている。戦後80年となる2025年8月、地元住民と集会を開き、証言を基に議論する計画だ。 「朝鮮人と住民の間には、絆もあれば差別もあった。様々な角度から歴史を振り返り、工事に関わった人々に思いをはせたい」
【戦後80年連載・向き合う負の歴史(11)】に続く × × × これまでの連載【(1)県が撤去した朝鮮人労働者追悼碑は「加害の歴史」伝えるシンボルだった】【(2)フェミニズムを入り口に慰安婦問題を学ぶ若者たち―東京、5千人学ぶカフェ】【(3)集団自決の傷痕撮る沖縄の写真家「真実伝え、戦争なくしたい」】【(4)うそつき呼ばわりされても、731部隊の「本当のことを語る」―94歳の元少年隊員】【(5)神奈川の人造湖を造った朝鮮人、中国人。碑が傷つけられても地域ぐるみで語り継ぐ】【(6)戦争経験継承は未来に向けた責任、「否定論」は実証積み重ね欠く】【(7)南京大虐殺を武勇伝のように語った元兵士。聞き取った神戸の老華僑が感じたことは】【(8)「歴史修正主義」と批判されるが、自分は極めて誠実な立場だ―当事者証言の検証欠かせない】【(9)ホロコースト否定が犯罪?!ヨーロッパが禁じる歴史修正主義から見る日本】