【戦後80年】広島で爆心地から460メートルで被爆 孤児となり朝鮮戦争にも遭遇した男性が語る生涯

広島市に投下された原爆の爆心地から、半径500メートル以内で被爆した人で、現在も生存しているのは、ただ1人と言われています。原爆、そして朝鮮戦争にも巻き込まれた男性の壮絶な人生に迫りました。
■被爆者・友田典弘(つねひろ)さん
「(靴を)もう片っぽ脱ごうかっていうところに、ピカ―って光った。」
小学生に被爆体験を語る友田典弘さん(89)は、爆心地から460メートルで被爆しましたが、奇跡的に助かりました。
大阪で暮らす友田さんは、12年前に妻を亡くし、今は一人で生活しています。インコたちが、寂しさを和らげてくれます。
友田さんが歩んできたのは、戦争に翻弄された人生です。実家は、現在の広島市中区大手町で、母と弟の3人で暮らしていました。兄弟は、袋町国民学校に通っていました。8月6日の朝、下駄箱がある地下室に降りた直後でした。
■被爆者・友田典弘さん
「ピカ―っと光って。オレンジ色でピカッーと光って、それで飛ばされて、角で腰を打って。」
爆心地から、わずか460メートル。学校にいた160人の教師と、子どもが亡くなりました。
■被爆者・友田典弘さん
「全部みんな真っ黒けで、歯だけ(白かった)。誰が誰だか分からない。分からないけど弟は、俺を呼びにいこうと思って、ちょっと離れたところで亡くなっていた。足を見たら『トモダ』って書いてあったからね。『ごめん、ごめんね』と言って(立ち去った)。」
自宅は、跡形もありませんでした。母の行方も分かっていません。近くの川は、遺体で埋め尽くされていました。
■被爆者・友田典弘さん
「もう何百人、川がいっぱいやったんよ。遺体で。僕は1人で(川を)見ていたね。『なんだろ』と思って。お母さんはね、家が川に近いから、川で亡くなっていたと思うよ。」
孤児となった友田さんに、手を差しのべてくれたのが、知り合いの朝鮮人男性でした。帰国する男性とともに、朝鮮半島へ渡ります。しかし、男性との生活は長くは続きませんでした。男性の家族から厳しく当たられ、13歳で再び孤児となります。
厳しい寒さの中での路上生活で、足の指先は壊死しました。
■被爆者・友田典弘さん
「真っ黒になって腐ってとれた。凍っていてね。病院には全然行っていない。」
さらに、1950年には朝鮮戦争が勃発し、友田さんがいたソウルが戦場となりました。
■被爆者・友田典弘さん
「弾がピューンピューン飛んでいきよった。目の前をね。」
朝鮮戦争を生き延びた友田さんは、知人の協力もあり、1960年に15年ぶりの帰国がかないました。
帰国から10年後の友田さんは、大阪の鉄工所で働いていました。30歳の頃に結婚し、5人の子どもを授かりました。
■被爆者・友田典弘さん
「宝物やね。家族ね。まさか子どもができると思わなかったから。当時は。(それは原爆にあったから?)そうそう。」
原爆と朝鮮戦争を生き延びた、友田さんの壮絶な体験を伝え残そうとする男性がいます。小学校で非常勤講師を務める、吾郷修司(あごう・しゅうじ)さんです。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「友田さんが原爆を受けたところは、すぐ目の前だから、ピカ、ドーンですよ。ピカっと光ったら、すぐドーンときて。」
吾郷さんが友田さんの体験を知ったのは、9年前です。以来、何度も大阪に足を運び、話を聞きとりました。その内容は、本になりました。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「(友田さんの)根底のところには、戦争に対する憎しみというか、腹立たしさというか、そういう思いを持って生きていると、何回か話を伺う中で思った。戦争ということに対しては、子どもたちも関心があるし、どこかで怖いという思いがあると思うんですけど、戦争は絶対起きてはいけないというような思いを(子どもたちが)持ってくれたら嬉しいなと。」
6月、友田さんの姿は、故郷・広島にありました。高校の新聞部の依頼で、被爆前後の足取りをたどります。向かったのは、80年前に通っていた袋町小学校です。
当時の校舎の一部が、資料館として残されています。伝えるのは、熱線に焼かれた弟のことです。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「弟さんはどの辺りに倒れていた?」
■被爆者・友田典弘さん
「出たらちょうどここね。俺、呼びに行こうと思ったのちゃう?」
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「多分だけど、弟さんは『お兄ちゃん』と言って、呼びに行こうとしていた。呼びに行こうと、下駄箱の方に向かって引き返すような感じで、来てたのではないかって。」
爆心地から半径500メートル以内にいたほぼすべての人は、一瞬で命を奪われました。広島大学の鎌田名誉教授の調査によると、今も生存するのは、友田さんただ1人ということです。キノコ雲の直下で起きたことを聞けるのは、友田さんしかいません。
■崇徳高校新聞部副部長 洲濵侑さん
「いずれ被爆者がいなくなる世界が訪れる中で、聞けるのはすごい貴重だと思うし、爆心地から近かったこそ語れる体験とか、その本人だから伝えられる言葉があると思うので、それを自分たちが受け取って汲み取って、記事にして伝えていきたいです。」
■被爆者・友田典弘さん
「僕ね、学校4年間しか行ってないから、高校生がうらやましい。(高校生たちには)戦争をしたらアカンしね。戦争に巻き込まれるからね。絶対したらアカンということ(が、伝わっていてほしい)。」
あの日を境に、激動の人生を歩むことになった友田さん。2つの戦争を生き延びた者にしか語ることのできない体験を、次の世代へつないでいきます。