「死の街に電車を走らせても、乗る人々がいるだろうか?」広島に原爆が落ちた当日、路面電車を“奇跡的復旧”させた人たちの「知られざる奮闘」

陸軍が拠点を置く「軍都」として、40万人前後が暮らしていたとされる広島県・広島市は、1945年8月6日に投下された原子爆弾(原爆)によって、筆舌に尽くしがたい被害を受けた。投下から43秒後に地上600メートルで炸裂、摂氏100万度の火球からは強烈な熱、高圧の爆風、そして放射線が発せられ、この年に約14万人が亡くなったとされている(正確な実数は不明)。
市民の足として機能していた「広島電鉄」も「市内の建物51カ所のうち50カ所が倒壊」「従業員の3割以上が死亡・負傷」という壊滅的な被害を受けた。しかし、生き残った人々が絶望に打ちひしがれる中、一部区間とはいえ早くも当日に復旧し、無賃で市民を乗せた。焼け野原を走る電車の姿を見て、多くの広島市民が「もう電車が動くんか!」と、驚いたという。
同様に原爆の被害を受けた長崎電気軌道は復旧に3カ月を要した一方、なぜ広島では、被爆当日から乗客を乗せて、路面電車を走らせることができたのか。
当時、広島電鉄で電気課長を務めていた松浦明孝氏の手記と、その手記をまとめた書籍『 だから路面電車は生き返った 』(南々社)の著者で広島電鉄・元運転士の中田裕一さんへの取材、広島電鉄の社史などを基に当時の様子を辿ってみよう。(全2回の1回目/ 続きを読む )
通勤・通学ラッシュの時間帯に、原爆は炸裂した
原爆が投下された時間帯はちょうど朝の通勤・通学ラッシュでもあり、走行可能な車両のほとんどが市内を走行中であった。いまと違って当時の車体は木造が多く、爆心地近くの電車は乗客・乗員とも一瞬で焼き尽くされたという。
関係者によると、爆心地から1キロ内を走っていた21両はおそらく超満員。計2000人はいたであろう乗客のうち、生き残ったのはわずか十数名であった。ブレーキ操作を行う間もなく運転士は一瞬で焼け焦げ、飛び降りて助かった乗客が振り返ると、電車は燃え盛りながら惰性でレールの上を走っていたという。
「死の街に電車を走らせ、乗る人はいるのか?」
広島電鉄の従業員も1241人中、185人が命を落とした。特に、屋外作業中であった人々は瞬時に熱戦・爆風の被害を受けており、爆心地近くで市内中心地付近の紙屋町で電線・電柱の整備作業中であった「架線係」は全員死亡。紙屋町・的場町・土橋などの地上で線路分岐を手動操作していた「ポイントマン」も、多くの人々が落命した。
運行を担う設備も、市内の送電を担っていた櫓下変電所は一瞬で倒壊し、中にいた人々は即死。本社の前にあった千田町変電所も屋根が落ち、整流器にガラスが刺さって使用不能となった。
本社や車庫では火災こそ発生しなかったものの、123両の車両のうち全焼22両、半焼3両、大破23両、小中破が60両。もともと故障していた12両を除くと、無傷で動けた車両はたったの3両しかなかったという。
路面電車は車両・設備・人材・すべてを徹底的に破壊され、焼き尽くされた広島の街並みには、歩く人々すらほとんどいない。松浦課長もあたりを見渡して「路面電車はもうダメだな、と思った」と第一印象を手記に記しており、会社幹部ですら「瓦礫の街に電車を走らせることはできるのか」「死の街に電車を走らせ、乗る人々があるだろうか?」と議論するような状況であったと手記に残している。
ところが、広島電鉄はあっという間に乗客を乗せ、ふたたび走り出している。
「電車が走れば、勇気が湧く」呼びかけに応じた人々がかいた汗
無事に助かったと思われた人々も放射線障害(原爆症)によって、続々と命を落としていく中、生き残った社員たちは伊藤信之常務(当時)の「焼け野原に電車が走れば、みんな勇気も湧き、喜んでくれるに違いない」との呼びかけに応じて、手分けして線路上を歩いて線路・車両・橋の状態を確認していった。
当時は出征した男性運転士に代わって、広島電鉄が創設した「広島電鉄家政女学校」の生徒が電車の運転・車掌業務を担っており、彼女たちも8月の炎天下をくまなく歩きまわった。こうした活動により「電柱が842本中393本が倒壊」を中心に、克明な被災状況を把握できた。
被爆当日に復旧できた理由
電車は、動かすための電気がないと走れない。その点、広島電鉄は市内中心部を走る路面電車(軌道線)以外に郊外を走る宮島線(己斐(現:広電西広島)~宮島(現:広電宮島口)の16.1キロ)があり、その電気供給を担う廿日市変電所が爆心地から西に15キロほど離れていた。
松浦課長の8月6日の手記を見ると「廿日市変(変電所) 無事 宮島線被害軽微」と記されており、さらに中田さんによると、当時は己斐に宮島線の車庫があり、そこや宮島に架線柱などのメンテンナンス資材を疎開させていたことも功を奏した。復旧作業にすぐ当たれた。また、宮島線は爆心地から比較的遠いこと、さらに市内の路面電車と架線の構造が異なることなどもあって、当日の昼過ぎには一部区間(草津~宮島)で、翌7日には己斐まで無賃での全線復旧を果たす。
しかし、電気は遠い距離に送るほどロスが生じ、まとまった量の送電はできない。そのため、宮島線以外の市内線で即座に復旧できたのは、できるだけ宮島線寄りの己斐~西天満町(現:天満町)に限られた。同区間は、一般的な路面電車とは異なり「専用軌道(新設軌道)」と呼ばれる構造で被害が軽微だったことも背景にある。この区間は8日に試運転を行い、9日の午後に復旧を果たしている。
広島と長崎、路面電車の復旧に差が生まれた理由
広島電鉄が被爆当日から復旧できた一方、同じ原爆被害を受けた長崎の路面電車では一部区間で復旧したのが被爆3カ月後の1945年11月。なぜここまでの違いが生まれたのだろうか。
まず長崎電気軌道は、郊外路線のある広島と違って、市街地の軌道線しかなく、現在の「長崎スタジアムシティ」北側にあった変電所が焼き尽くされてしまった。かつ長崎は電車運行の心臓部であった大橋営業所・車庫が爆心地から約500メートルという至近距離にあり、多くの人々がここで落命する被害を受けている。
携わる人々が路面電車を復旧させるために汗を流したことに、もちろん変わりはないだろう。しかし、変電所の位置や爆心地と車庫・本社の距離で、電車復旧に大きく違いが出てしまった。
大半の区間は未復旧……2度の台風被害も乗り越え、どう復旧したのか?
被爆からわずかの期間で広島電鉄が復旧したことは広島市民をかなり驚かせたようだ。
広島電鉄が発行した『広島電鉄開業80創立50年史』には、一番電車を運転した運転士さん・車掌さんの「みんな『電車が動くじゃないか』とたまげて見てくれたんがね」「ただで乗っても『料金を』とか言わりゃせん。銭金じゃなかったから」など、当時を回想するコメントが残っている。
しかし、一部で走り出したとはいえ、市内中心地を走る大半の区間の復旧はこれから。原爆による甚大な被害に加え、秋口にかけて2度の大型台風にも襲われながら、広島電鉄は様々な人々に助けられつつ、復活への道を歩んでいく。
〈 原爆から無傷で生き残った車両は「わずか3つ」…広島電鉄の“奇跡的スピード復旧”を支えた「名もなき人々」とは 〉へ続く
(宮武 和多哉)