釜本邦茂さん 肺炎で死去 81歳 68年メキシコ五輪得点王 日本史上最高のストライカー Jリーグ発表

1968年メキシコ五輪銅メダリストで、日本サッカー界を代表するストライカーとして活躍した釜本邦茂さんが10日に大阪府内の病院で肺炎のため死去した。81歳だった。同日にJリーグが発表した。京都府出身。2023年9月ごろから誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。昨年の秋に手術を受け、一時、回復したものの療養を続け、6月中旬に容体が悪化した。

Jリーグは「日本サッカー協会の元副会長の釜本邦茂氏はかねてから病気療養中でしたが、8月10日午前4時4分、大阪府内の病院で肺炎のため、逝去されました」と訃報を伝えた。

そして「釜本氏は、元日本代表(1964~1977年)としてプレーされ、メキシコオリンピックでは7得点を挙げ、得点王に輝きました。2005年、日本サッカー殿堂に掲額。81歳でした」と故人の功績を伝え、「ここに謹んで哀悼の意を表し、お知らせいたします」としのんだ。

なお、通夜、告別式は近親者のみで執り行う意向で、お別れの会の実施については後日案内するとしている。

京都生まれの釜本さんはスポーツ万能で、小学校では野球もサッカーもやっていた。蜂ケ丘中入学時にプロ野球選手を夢見て野球部に入るつもりだったが、サッカー部の顧問から「野球は日本と米国だけだが、サッカーは五輪もあるし、世界中に行ける」と言われたことでサッカー部に入部。すぐに頭角を現し、「点取りガマ」のニックネームをもらった。山城高時代から大型ストライカーとして注目され、1年でユース代表にも選ばれたが、経済的な事情で辞退。2、3年の時はアジアユースに出場し、活躍した。

早大に進学し、1年の時に日本代表入り。東京五輪の日本代表に選ばれ、ベスト8入りに貢献した。ただ、ゴールはこぼれ球を押し込んでの1得点のみでみじめな思いをひきずったという。「たとえ試合に勝っても自分が無得点だったら不満だし、負けてもゴールを挙げていれば満足。独善的といわれようが、ゴールという唯一の目的を果たすには、こうするしかなかった」。東京五輪での屈辱が、ストライカーとしての強烈な自負を芽生えさせた。

現役時代のハイライトは7得点で得点王にも輝いた1968年メキシコ五輪。1次リーグ初戦のナイジェリア戦でいきなりのハットトリックを決めた。そのうち2点は杉山隆一とのホットラインにより生まれたもの。毎日100本近くセンタリングを受けてシュート練習をしていたという、名コンビは世界の脅威となった。開催国メキシコとの3位決定戦で2得点をマークし、日本に初のメダルをもたらした。「3番目のポールに揚がった日の丸がまぶしく見えた」。普段はトロフィーなどは友人らにあげていたが、メキシコ五輪銅メダルだけは金庫で大事に保管したという。

五輪をきっかけに世界からも高く評価されたが、W杯とは縁がなかった。1970年メキシコ大会のアジア予選では、ウイルス性肝炎で出場すらできず。1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会の予選はいずれもケガに泣いた。

W杯出場という悲願を達成できないまま、1977年に日本代表から引退。1978年からはヤンマーの選手兼監督として日本リーグ202得点という不滅の記録を樹立して、1984年に現役を引退した。

引退後は、テレビ番組のキャスターや参議院議員など、多岐にわたって活躍。日本サッカー協会副会長などの要職を歴任、最近はサッカー解説や講演活動などを行っていた。

◇釜本 邦茂(かまもと・くにしげ)1944年(昭19)4月15日、京都市右京区生まれ。京都・山城高1年でユース代表に選ばれるなど頭角を現し、早大1年時に日本代表入り。20歳で出場した1964年東京五輪では1得点をマーク。1968年メキシコ五輪では3位決定戦でメキシコ相手に2得点を奪うなどし、7得点で得点王。銅メダル獲得に貢献した。1978年からは所属するヤンマーの選手兼監督となり、1984年2月に現役引退。日本リーグ通算202得点。日本代表76試合で75得点。引退後はテレビ番組のキャスターや、G大阪の監督にも就任。1995年から参議院議員を1期務めた。