群馬県警OBの山田俊秀さん(81)(群馬県藤岡市)は、日本航空ジャンボ機墜落事故後に設置され、事故の刑事責任を追及した特別捜査本部の事件総括班長を務めた。事故原因を突き詰めて出てきた答えは、人任せにしないこと。520人の命が絶たれた事故の教訓の一つとして、伝え続けてきた。
現場わからぬまま上野村へ「あるだけの無線機を貸してほしい」
――群馬県警捜査1課特殊事件捜査班長だった時に墜落事故が発生した。
1985年8月12日は月曜で、勤務を終えて帰宅し、くつろぎながらテレビを見ていたら、「日航機が管制レーダーから消えた」というニュースが流れてきました。「まさか群馬へは……」。そう考えていたところに自宅の電話が鳴りました。電話をかけてきたのは、知り合いの警察庁捜査1課特殊事件担当の課長補佐でした。「山ちゃん、日航のジャンボ機が墜落したようだ。関連の情報収集をしてくれ」。そう言われたので、半袖シャツ姿のまま急いで県警本部に向かいました。
約10分後に県警本部に着きましたが、「日航機の消息が途絶えた」という情報しか集まっておらず、緊迫感はありませんでした。群馬県内の各警察署に関連情報の収集を手配し、隣県の長野、埼玉や山梨の県警本部とも連絡を取り合いました。どこが墜落現場かわからないまま、午後8時過ぎ、墜落した可能性があるとみられた長野県境の上野村に向けて部下と2人で出発しました。
群馬県警本部のある前橋市から上野村までは、車で1時間半くらいかかります。移動中はラジオニュースを聞きながら、航空機事故についての捜査教本である「航空機事故事件捜査要領」を読んでいました。
上野村役場に到着すると、当直とみられる職員が2人いたので、「実は日航ジャンボ機が墜落した。上野村管内かもしれない。後続部隊が来るので、あるだけの無線機を貸してほしい」と伝えました。職員は驚いた様子でしたけれど、18機の無線機を借りることができました。すぐに、村の消防団や猟友会などとも連携しましたが、夜のうちに現場は特定できませんでした。
約5時間かけてたどりついた現場「地獄絵図のような光景」
――8月13日午前5時37分、長野県警ヘリ「やまびこ」の部隊が墜落現場の確認をした。
「高天原山の北東2キロ。県境の東方0・7キロ地点で日航ジャンボ機と思われる機体を発見」と連絡がありました。地図で該当する場所を確認し、県境の尾根を流れるスゲノ沢沿いを進むことを決めました。群馬県外からの応援部隊を含めた総括検証班長を任され、数十人で先発しました。
雷雨にも見舞われる中、谷間の崖を下りては上るなどして約5時間歩き続けると、斜面に水平尾翼が見えてきました。さらに進んだ先で遺体の一部も次々と見つかり、一帯はまさに地獄絵図のような光景でした。生存者の捜索を行い、切断などがない十数人を近くの木陰に移しましたが、すでに亡くなっていました。
できるだけ早く遺体を遺族に引き渡すため、下山せず尾根に野営し、一帯にある遺体の部位一つ一つの特徴と位置情報を記録し続けました。現場は傾斜度が最大45度の尾根です。足元の石が崩れれば、「落石!」と大声で叫んで注意し合い、木や岩に身を潜めて防ぎました。
8月とはいえ、夜間の気温が5~6度に冷え込む中、斜面を平らにならしたところにテントを張り、5畳足らずのスペースに、十数人が重なり合って横になりました。寒くて一晩中、枯れ枝を燃やしている隊員もいました。
日米にまたがる捜査、なぜミスに気づけなかったのか
――群馬県警は8月13日に特別捜査本部を設置し、墜落事故の刑事責任追及に向けた捜査を開始。9月2日には捜査員50人からなる専従体制が組まれ、山田さんは事件総括班長に就いた。
飛行機の飛び方といった基本的な部分の裏付けも含めて、捜査は多岐にわたることが想定されました。航空機事故の捜査は法体系が難しい上に、検査や整備マニュアルは英語で書かれた特殊用語や略語が多かったです。捜査は数年かかると考え、ピラミッドを造るように一つ一つの石を土台から間違えずに積み上げていくしかないという覚悟で臨みました。
まずは、航空工学などの文献を取り寄せたり、大学教授ら専門家から学んだりして、捜査員全員の専門性を高めるところから始めました。雷や鳥、空中衝突、人為的空爆など事故とは無関係だと考えられる要因についても、可能性を否定する「消極捜査」も進めました。
捜査の結果、墜落した事故機が1978年に大阪空港で起こした「尻もち事故」後に行われた修理で、圧力隔壁に修理ミスがあり、その修理部分に疲労亀裂が生じ破壊されたことが事故原因と結論付けました。
この修理ミスは誰も気付けなかったのか――。関係者の刑事責任を追及する捜査では、修理後の「領収検査」に着目しました。領収検査は簡易なメモを基に行われていて、検査のずさんさについては、複数の日航関係者も認めていきました。
修理ミスをした機体メーカー・米ボーイング社の関係者を聴取するため、警察庁の捜査員とともに渡米もしました。2週間ほど滞在し、国務省や司法省、連邦捜査局、国家運輸安全委員会などを訪れて協力を求めましたが、「本人たちが調査に応じたくないと言っている」とした上で、連邦法に業務上過失致死傷罪を問う規定がないことからも「国から強制的に応じさせることはできない」と言われました。聴取がかなわず、帰国するのは無念でした。
31人全員不起訴、こみあげる無念
――県警は事故発生から3年4か月後の88年12月、修理したボ社、日航、運輸省(当時)の関係者20人を書類送検。ただ、前橋地検は89年11月、遺族会「8・12連絡会」が刑事告訴した関係者も含めて計31人全員を不起訴とし、90年に公訴時効が成立した。
尾根で無残な遺体の対応にあたり、群馬県藤岡市の遺体安置所では泣き崩れる遺族の姿も見ていました。犠牲者や遺族の無念を痛感していた分、不起訴となることを聞いた時は遺族に対する申し訳なさがこみ上げました。前橋検察審査会は一部のボ社、日航関係者を「不起訴不当」としましたが、同地検は再び不起訴にしました。
飛行機は本来、何重にも安全がチェックされて飛ぶはずのものです。「ボーイング社を信頼した」などと責任逃れを繰り返す日航関係者もいて、その体質こそが、事故原因につながったと個人的には考えました。
ただ、こうした“人任せ”は日航に限らず、どこの組織でも起き得ます。一つ一つの仕事を、自分が主体的に取り組んで見届ける。当たり前の「責任」を果たしていく重要性を、講演会などで訴え続けてきました。
世の中は技術革新で自動化が進み、仕事にあたる一人ひとりの姿が見えづらくなっています。そんな今こそ、日航機事故の教訓を改めて受け止め、それぞれが取り組んでいる仕事の責任について、考えていく必要があると思います。(聞き手・石原宗明)
やまだ・としひで 1944年生まれ。67年に群馬県警に入り、刑事畑を歩む。85年4月に捜査1課特殊事件捜査班長となり、日航機墜落事故の事件総括班長を務めた。その後富岡署長などを歴任し、2005年に退職した。
「自衛隊が関与」偽情報と戦う
「自衛隊が墜落に関与したのでは」――。日航機の墜落原因を巡っては、発生後から根拠のない臆測が飛び交っていた。群馬県警は、こうした「偽情報」を打ち消す捜査も行っていた。
爆発物関係の捜査では、生存者4人が事故発生時に着ていたブラウスやワンピースなどのほか、後部圧力隔壁の付着物、相模湾から回収された垂直尾翼の機体片など計約160点の鑑定を行った。その結果、すべての証拠品で火薬・爆発成分は検出されず、ミサイルなどが機体に当たっていなかったことを裏付けた。
また、「自衛隊の標的機が衝突した」と本などで取り上げられるきっかけとなった、墜落現場にあったオレンジ色の機体片については、墜落した際に機体の日の丸の朱色がこすれて変色したものと特定。その上で、防衛庁(当時)や米軍横田基地に事故当日の訓練状況などの照会をかけ、自衛隊機や米軍機が衝突した可能性がないことを確認していた。