「血液の代わりに海水を注射」アメリカ軍捕虜に“人体実験”が行われ…帝大医師らが起こした“事件”の真相とは

〈 アメリカ兵8名が手術後に死亡、「野蛮極まる虐殺」と…名門大医学部教授が手を染めた“凄絶な実験”《1945年・九大生体解剖事件》 〉から続く
80年前、日本の敗北で終わったあの戦争の間、日本の軍人や医師による生体解剖が行われた。公になったのは戦争犯罪として裁かれたわずかなケースだが、実際にはほかにも知られていないいくつかの例があったといわれる。
どのような状況で、どのような人々がどのような思いで手を下したのか。そこから見えるものは何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。人名は適宜実名を外した。軍人の肩書きは戦後「元」が付くが、煩雑なので新聞の見出し以外は現職の肩書きで記す。(全3回の2回目/ つづきを読む )
◇◇◇
1948(昭和23)年2月、前前年から続いていた極東軍事裁判(東京裁判)は弁護側の反証が大詰めの段階に入っていた。社会面は前月末に起きた 帝銀事件(東京の銀行で行員ら12人が毒殺され、現金などが奪われた事件) 関連のニュースで持ち切りだった。
2月26日には九州帝国大学(当時/以下九大)医学部でおきた「生体解剖」事件で28人が起訴されたことが各紙で報じられ、生体解剖は4回で、殺害されたアメリカ人捕虜は8人だったことなどが公表された。起訴状による事件の概要を最も控えめな毎日で見よう。
解剖後、「宴会で肝臓を食べた」?
〈 昭和20年5~6月の間に4回にわたり、医学実験用としてB29乗員8名の捕虜が九大に移され、試験のため投薬された後、九大病院手術室(引用者注:解剖実習室の誤り)に運ばれた。手術は医学実験のためのみでなく、むしろ捕虜に対する復讐と、医師に生体解剖の機会を与えるためだった。

解剖は捕虜の肺、脳、肝臓、胃、心臓の各部について行われ、1人の捕虜に1つ以上の解剖実験を合わせ行った。この実験中に海水が血漿の代用となるか否かを試す注射も試みられた。これにより捕虜は全員死亡した。実験で摘出された肝臓は九大医学部職員(引用者注:偕行社病院の誤り)食堂での宴会の席上、料理され酒のさかなに供された。〉
記事には第8軍法務部長カーペンター大佐の「これまで数々の事件の調査に当たってきたが、人道を無視した本事件の野蛮さ、冷酷さは類例がないものである」との談話が付されている。
「今日まで起訴した事件のうち最も戦慄すべき事件」
裁判が始まったのは3月11日。生体解剖だけでも十分衝撃的だが、「食肉」まで加わったことで、血なまぐさいことに慣れていた戦争直後の国民にとってもショッキングだっただろう。12日付読売は初公判記事を抑えて、社会面トップに「正視せよ残虐」の見出しで、アメリカの通信社INS(のちUPと合併してUPIに)の記者の署名記事を載せた。
「総司令部法務当局でも、今日まで起訴した事件のうち最も戦慄すべき事件だとみている。これは戦闘の真っただ中で行われた他の事件のように、全日本人が『おのれの知ったことではない』とうそぶくわけにはいかないものだ」
「今回の事件関係者は優秀な頭脳の持ち主であり、医学の専門家であった。しかも、事件は前線からはるかに遠い所で起こったのである」
被告30人が無罪を主張
同紙の初公判の記事も「ずらり丗(三十)被告 世界の注目あびて出廷」(九大関係者2人が加わり被告は30人になっていた)の見出し。本文はこうだ。
〈 戦慄すべき数々の残虐性を示した本事件の審理には、さすがに全世界の耳目が集中し、開廷前から廷内には内外の傍聴者、カメラマン、新聞記者らが詰め掛け、緊張の中に被告の長男や妻ら二十余名の被告関係者の不安げな姿も。皆、沈鬱な表情だった。

開廷30分前、初の日本人女性被告、九大第一外科看護婦長(32)がカーキ色に紺が混じった上着、水色のスカートで案外元気な姿を見せれば、続いて横山、稲田両元中将以下の全被告が定めの被告席に着く。しばらくは煌々(こうこう)たる明光の下にカメラマンの動きが慌ただしく、大裁判開廷の興奮がみなぎった。

かくて定刻9時半、ジョイス軍法委員長のおごそかな開廷宣言があり、サイデル主任弁護人が日本人弁護人11人を紹介。フォン・バーゲン主任検事によって起訴状が朗読され、ここに秘密のベールに包まれた事件の審理が開幕した。〉
「不当に8人を殺害」「捕虜の虐待死体を冒涜」
読売を含めた各紙によれば、弁護側は「人肉嗜食を戦争犯罪とする戦争法規や慣習はない」としてこの部分の削除を要求。却下されると、生体解剖事件との分離を求めたが、これも却下された。罪状認否では被告30人全員が無罪を主張した。罪状については読売が詳しかった。
〈▽生体解剖 西部軍11人、九大13人
1.被告らは昭和21年6月、故意かつ不当にも米飛行士12人のうち8人を殺害
2.8人を生体解剖に付した
3.捕虜の虐待死体を冒涜した
4.埋葬の怠慢
5.軍法会議にかけずに処刑した
6.捕虜8人を九大に不法拉致した
7.正式な捕虜取り扱い規定を無視した
8.捕虜逮捕とその生死に関し、米政府になすべき情報提供を怠った
9.捕虜は昭和20年1月30日の空襲で死亡したと虚偽の報告をした

▽人体試食 軍医、歯科技術者ら6人
被告らは西部軍将校クラブ(偕行社病院食堂)で捕虜8人(1人の誤り)の肝臓を醤油で味をつけて試食した〉
横浜BC級裁判は東京裁判と違って司法的な裁判ではなく、裁判の主体は各国の軍事委員会で、判事は全員軍人。読売も含め、各紙の記事が「軍法委員長」としているのはそのためだ。軍の司法機関ではなく行政機関なので、司令官の命令で審判結果が執行されるが、一方で減刑されることもあった。
法廷はその後、連日のように、取り調べ段階で聴取した被告の口供書の朗読、証人の証言が続けられた。当時の新聞は4ページ程度でスペースが限られていたうえ、生体解剖・人肉食という深刻な問題にためらいもあったのか、報道は断片的で、記事で事件の詳細をつかむのは不可能。
国立公文書館に所蔵されている裁判記録に加えて事件関係者がつづった手記などもあるが、自己弁護も混じり、微妙に食い違っている。上坂冬子『生体解剖―九州大学医学部事件』(1980年、以下『生体解剖』)、生体解剖を実見した東野利夫の『真相―「九大生体解剖」最後の目撃証人の実証記録』(2019年、以下『真相』)など資料を突き合わせ、妥当と思われる事実を確認していくしかない。
生体解剖はなぜ行われたのか?
事件の端緒が、石山外科出身で、召集されて西部軍司令部脇の偕行社病院に勤務していた小森卓という見習士官軍医だったのは間違いないようだ。同病院の副院長格で、九大医学部助教授の話もあったといわれる優秀な医師だった。交通事故で同病院に入院した西部軍防空担当参謀、佐藤吉直大佐の治療に当たったことから大佐と親しくなった。
1945年4月、病院内で話しているうち、撃墜されたB29の乗員で西部軍に捕らえられている捕虜の話題になり、佐藤大佐が持て余していることを漏らすと、どうせ処刑されるのだったら自分に任せてもらえないかと持ち掛けた。大佐は承諾した。この時点で両者の間では実験手術を名目にした生体解剖が了解されていたとみられる。
小森見習士官は石山外科で同僚だった開業医に「手術」を持ちかけたが断られ、“恩師”の石山福二郎教授に頼み込んだ。
5月18日に法廷に提出された石山教授の口供書は、1945年5月12日に小森見習士官から電話で「負傷した外国人の治療に関して来てほしい」と言われたが、「大学に規定がない」として断った。しかし、注射に関する問題だったので行ったが、患者は死亡。遺体を解剖した、としていた。
石山教授は胸部外科の権威だったが、当時輸血用の血液が不足していたことから、海水で代用できないかと考え、医学部内で研究会を作って研究を進めていた。他の被告や証人の証言からは石山が「実験手術」が生体解剖であることを認識したうえで積極的だったことがうかがえる。
「時がそうさせるんです」
西部軍に捕虜収容所はなかったが、司令部近くに仮設の収容施設があり、1945年5月5日、大分県竹田市で日本軍戦闘機の体当たり攻撃で撃墜されたB29の搭乗員10人が収容されていた。
この年、3月10日の東京大空襲以降、B29の空襲は大都市を標的に激化していた。水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』(1975年)の5月5日の項には「(午前7時すぎより)別働約20機は大分県に侵入。同地航空施設を攻撃して、佐伯付近より脱去した」とあり、別行動の10機と合わせ、日本側の「総合戦果」は「撃墜3機(うち不確実1機)」と書かれている。「手術」を受けたのはこのうちの1機の乗員で、死亡者1人を除く10人が福岡に運ばれ、機長だけは「情報に価値あり」として東京に移送されていた。
「文藝春秋」1957年12月号に載った平光教授の「戦争医学の汚辱にふれて―生体解剖事件始末記」では、石山教授から電話で「あす、西部軍の依頼命令で負傷した米軍飛行士の手術をしたいから、大きい解剖(実習)室を貸してもらいたい」と依頼があった。平光教授が事情を聴き返すと、石山教授は「時がそうさせるんです」と答えた。しかし、翌日は来ず、来たのはそれから4~5日たってからだったという。
1945年5月17日、西部軍の所要の手続きを踏み、米軍飛行士2人をのせたトラックが九大に到着。石山教授と2人の助教授、講師が出迎えた。解剖実習室に運ばれた捕虜1人はけがをしており、治療を受けると思っていたようだ。
教室には看護婦長ら看護師3人、記録係ら十数人がおり、捕虜と同じトラックで到着した佐藤大佐ら西部軍幹部も見守った。執刀は石山教授、第一助手は小森見習士官で、麻酔注射で眠っている2人からそれぞれ肺の片方を摘出。海水を注射し、2人は“手術”の途中で死亡した。
肺、胃、心臓、肝臓……次々と
2人の助教授と講師は1人目の途中から尋常の手術でないのに気づいたが、何も言わず、そのまま従った。途中で外出先から帰った平光教授が入ってきたが、しばらく見て出て行った。終了後、解剖学教室の助教授らが胃、肝臓、腎臓、心臓などを切除して持ち去った。彼らはのちに「平光教授の命令だった」と供述した。
2回目は5月22日。捕虜2人に対して、1人からは胃全部と心臓を摘出し、もう1人からは肝臓を切除した。この時、小森見習士官が肝臓を持ち帰ったことが「食肉事件」に結び付く。3回目は5月25日に1人の脳を切開。最後となった4回目は6月2日で、捕虜は3人だった。1人は代用血液としての海水注射、1人は胸腔内の縦隔の手術、残る1人は肝臓の半分の摘出だった。
一部で不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった
1回目の後、助教授2人は「軍が手術を望むなら軍病院でやるべきで、九大でやるのは筋違い」などと訴えたが、石山教授は「軍の命令だ」と跳ねつけた。そのため、石山教授の“一番弟子”とされた助教授は3回目から不参加。他のメンバーの間でも「必要がない実験」「こんなこと嫌」などと不満が出ていたが、表立った抗議などはなかった。石山教授は医学界の権威で、学内では「独裁者」と呼ばれており、その威光には逆らえなかったのだろう。
『生体解剖』によれば、4回の中間に開かれた学会で、石山教授は代用血液としての海水の有効性について発表しており、同書は「自ら最も関心の深い研究テーマに沿って生体解剖を行っている」と書いている。
小森見習士官が焼夷弾の直撃により死亡
最後の「実験」の約半月後、福岡は大規模な空襲に見舞われる。『日本列島空襲戦災誌」掲載の「西部軍管区司令部発表(6月)20日6時」は、B29約60機が19日22時半ごろから20日0時半ごろまでの間、福岡市に主として焼夷弾攻撃を実施したと記している。「死者213人、負傷者565人、焼失家屋1万3309戸、罹災者5万7883人」(同書)。実際はもっと多かったといわれる「福岡大空襲」だった。
そのさなか、出先から偕行社病院に戻った小森見習士官は焼夷弾(しょういだん)の直撃を受け、九大第一外科に担ぎ込まれた。駆けつけた石山教授が右足を切断。いったんは命を取り留めたが、佐賀県の陸軍病院に移ってから破傷風にかかり、九大に戻された後、7月9日に死亡した。
約3年後に獄中で自殺した石山福二郎教授は数通の遺書を残していた――。
〈 「当時の精神状態に戦慄する」捕虜8名が犠牲になった“実験手術”、“人肉食疑惑”まで報じられ…医師たちを異常行為へと踏み込ませたものとは 〉へ続く
(小池 新)