山口組の東京進出、相次ぐ抗争、暴排条例… 暴力団は「衰退」したのか 警視庁組対部の22年㊤

巧妙化・複雑化する暴力団などの組織犯罪に対応するため平成15年に発足した警視庁組織犯罪対策部(組対部)が10月1日、刑事部に統合され、22年の歴史に幕を閉じる。この間、暴力団の人員は減少の一途をたどったが、組織の対立抗争は相次いだ。「半グレ」や「匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)」といった新たな治安上の脅威も台頭。組対が対峙し続けた暴力団は、いかに「変容」していったのか。
寡占化が「呼び水」
警察庁によると、暴力団の構成員・準構成員などの総数は平成4年の暴力団対策法施行後、一時的に減少したが、8年に再び増加に転じ、組対部が発足した翌年の16年まで増え続けた。
暴対法によりシノギ(資金獲得活動)に窮する中小の組織が増え、関西を拠点とする山口組、関東の両巨頭である住吉会、稲川会という大組織の指定暴力団がこれらを吸収。捜査幹部は「業界の寡占化が進んだ時期だった」と振り返る。
こうした影響から、血なまぐさい対立抗争事件も相次いだ。有名なのが、平成15年1月に発生した「前橋スナック拳銃乱射事件」だ。稲川会系元組長の殺害を計画した住吉会系組長ら3人が、前橋市のスナックで拳銃を乱射。一般客ら4人を射殺し、元組長ら2人に重傷を負わせた。
13年8月には、都内で行われた住吉会系幹部の通夜を稲川会系幹部らが銃撃し、3人を死傷させる事件が発生。複数の一般市民が巻き添えになった惨劇は、この報復だったとされる。
「侵攻」への危機感
このころ目立っていたのは、債権回収といった民事介入暴力事件や、総会屋などの企業対象暴力事件。組対関係者は「曲がり角を迎えた暴力団が、新たなシノギを模索していた時期」と分析する。
そんな中、「急転直下の事態」(捜査幹部)が起きる。17年9月、東京の指定暴力団・国粋会を山口組が2次団体として傘下に納めたのだ。山口組は当時、篠田建市(通称・司忍)6代目組長の就任直後。東京進出の本格化を意味していた。
警視庁は同月、「山口組集中取締特別捜査本部」を設置し対応したが、組対捜査員らが注視したのが国粋会の「特異性」だった。歴史が古く、銀座や渋谷、六本木、浅草、上野、五反田などの繁華街に縄張りを持つ。これらの一部を他の組織に貸与し、賃料を得る「貸しジマ」で知られていた。
実際、こうした「事情」が背景にあるとみられる事件も相次いだ。19年には、東京・西麻布の路上で国粋会傘下の組員が住吉会系組員を射殺。その後、都内にある山口組系事務所を標的にした連続発砲も起きた。
暴排条例の「あだ花」
凶悪化する暴力団に歯止めをかけようと整備が進められたのが、暴力団排除条例(暴排条例)だった。市民や事業者が暴力団への利益供与を禁じる内容で、平成23年10月には全都道府県で施行。暴対法と合わせ、暴力団が「表舞台」で活動することは、ほぼ不可能となった。
替わって「あだ花」のように台頭したのが、半グレと呼ばれる集団だった。暴走族OBなどの不良グループで構成され、暴力団のような凶暴性を持ちつつ一般人のように振る舞い、特殊詐欺などの違法行為に手を染めた。
警察当局はこうした半グレを「準暴力団」と認定、取り締まりを強化。だが、現在問題となっているトクリュウは、さらに厄介な存在といえる。不良や元暴力団員、外国人など、構成メンバーはさまざま。SNSでつながり、実態把握は半グレ以上に困難だ。
組織縮小も「凶暴性変わらず」
27年に山口組が分裂したように、暴力団自体は表面上、減退しているようにみえる。構成員・準構成員は組対部発足当時の平成15年には全国で8万人以上いたが、令和6年末時点では2万人を切った。暴力団犯罪の摘発者も年々減っており、派手な抗争事件も少なくなった。
ある暴力団関係者は「親分への『御奉公』で組員が出ていく(犯罪を犯す)ケースは今もあるが、器物損壊程度の軽い罪で済ませる。出所後には組がなくなったり見捨てられたりするケースもあり、体を張る価値があるのか計算する」と打ち明ける。
かつてのように看板を掲げられず、組員も少なくなった暴力団だが、半グレ、トクリュウとの「接点」は絶えず見え隠れしている。捜査幹部は「たとえば、犯罪の実行行為をトクリュウなどにやらせ、アガリ(上納金)をもらえば、リスクも少ない」と指摘。「凶暴性の『質』は変わらない。一定数まで減ったが、頭打ちの勢力のまま、推移していくのでは」と話した。(海野慎介)