高市早苗氏の「ワークライフバランス捨てます」発言は絶妙…反論の声の裏で「よく言った!」の声が続出した理由

2025年10月4日は「歴史が動いた」日になったかもしれない。自民党の新総裁に高市早苗氏が選ばれたのだ。政権与党である自民党にとって初の女性総裁であり、日本にとって初の女性首相が誕生することも確実視される。
その高市氏の発言がさっそく物議を醸している。就任決定後の挨拶で、次のように発言したのだ。
まず、今年の参議院選挙で「敗北」した自民党の再建について、こう述べる。
続く発言が注目を浴びた。
なお、その後登壇した石破茂首相は、次のようにツッコんだ。
この高市氏の発言に対して、賛否が渦巻いている。好意的にみる意見としては、頼もしい決意表明だといったところ。対して否定的な意見としては、まさにワークライフバランスを否定するような発言ではないかという疑義だ。
高市氏の個人的な背景を付け加えると、夫は山本拓元衆議院議員。今年に入って山本氏が脳梗塞を発症し、現在も右半身が動かない後遺症に悩まされており、高市氏は「私1人で介護している」とも発言していたという。近親者の介護に従事しながら仕事にも向き合うという高齢化社会の難問に、高市氏も直面していたといえる。
そうした背景があっての「ワークライフバランスを捨てる」発言。よほどの決意とも取れるし、介護はどうするんだろうという下世話な興味も湧いてくる。
高市氏は元来、相当のハードワーカーのようだ(そもそも著名な政治家にハードワーカーでない方はいないと思うが)。総裁選に向けた日経新聞の特集では、推薦人の尾崎正直氏が次のように述べている。
と、「徹夜する人」で有名だったことが窺える。
残業すら忌避されがちな現代において、徹夜で有名だった方が「ワークライフバランスを捨てる」と発言するとは、高市氏が「保守」で知られる理由もわかる気がする。
ワークライフバランス(以下、WLB)とはすなわち、労働時間の短縮であるともみなされる。「働き方改革」が進む中で、筆者の周りではこうした声もよく聞かれた。
とあるご年配の方はこう仰っていた。ハードワークで知られる業界の方である。
実際に、アメリカの平均月間労働時間はOECD主要国の中でも一貫してトップであり続けている。微減傾向であるものの、日本に比して減少幅は小さい。
かつて「プロジェクトX」という番組が流行った。そこで紹介されていたある企業では、世界初の新製品を生み出すために、社員が1年中ほぼ休みなく働き続けたという。1970年頃の話だ。現代ではもはや、いろいろな意味でファンタジーである。
ただ、もし、それほどのハードワークが卓越した成果の必要条件であるならば、WLBを遵守した条件下では卓越した成果は生まれないかもしれない。
仕事に全身全霊を懸けないと、望ましい成果は得られないのではないか?
経営学者の石山恒貴は著書『人が集まる企業は何が違うのか』において、こうした気風を「マッチョイズム」と概括する(注)。石山によるとマッチョイズムの構成要素は4つで、「弱みをみせてはならない」「強さと強靭さ」「仕事最優先」「弱肉強食」だという。マッチョイズムは、終身雇用を約束された労働者に対して異動や転勤を余儀なくする「無限定性」と結びつき、日本企業の基盤となってきた。
石山は、もはやそうしたマッチョイズムは「機能不全」だとも指摘する。たしかにそうした気風を支えてきた終身雇用、人口増加、性別役割分業などの諸条件は、もはや瓦解しつつある。
しかし悩ましい未解決課題がそこにある。それでもすべてを捨てて懸けないと、卓越した成果は出ないのではないか? この強迫観念にいかに答えるのかが、今後の日本の課題といえるだろう。
WLBをめぐって、われわれは二つの強迫観念に直面している。ひとつは既に述べた「マッチョイズム的な強迫観念」であり、もうひとつは「他者志向的な強迫観念」である。
注:石山恒貴『人が集まる企業は何が違うのか 人口減少時代に壊す「空気の仕組み」』(2025年、光文社新書)
今回の高市氏発言は、御多聞に漏れずSNSでも議論(というより罵倒の応酬)を呼び起こした。ふと不思議にもなる。高市氏はあくまで個人の決意表明をしただけなのに、それが「仕事至上主義を押し付けている」と捉える向きが多いことに、だ。
もちろん高市氏は多大な影響力をもつ方であるのだから、発言の一つ一つに慎重になるべき立場ではある。でも、なぜそんなに「押し付けられた」気持ちになるのだろう。「個人の意見を尊重して、自分と他人は別だと考える」というのは、WLB推進の基本理念ではなかっただろうか?
2025年は、ドジャースの大谷翔平選手にお子さんが産まれたことが話題になった。オールスターゲーム出場時の会見でお子さんについて問われた大谷選手は「基本的には(球場入り前の)午前中にお風呂に入れたり、(試合後に)帰ってきた後、時間帯によって僕が面倒を見る感じ」と、「育児に参加」していることを匂わせた。
あるテレビ番組では、この大谷選手の発言に対してコメンテーターが「この発言だけは本当に欲しくなかったですね」と笑い交じりではあるが発言した。大谷選手の育児への向き合い方と、各家庭の状況はなんら関係なく思えるが、大谷選手を引き合いに出されたお父さんがけっこういたのかもしれない。
これだけ「個々人の価値観を尊重」と言いながら、われわれはどこかで必ず、他人と――しかも、何の関係もない他人と――比べているのである。
本当に個人の価値観を尊重するなら、「私は一切家事をやっていません。パートナーも納得しています」という家庭があってもおかしくない(もちろんこれは男女どちらにも成立する)。ただそれを表明しようものなら「WLBの時代に何を言う!」などと叩かれる。人それぞれの価値観を認めると言いながら、明らかに何らかの規範を押し付ける向きもある。
何らかの規範を集団的に共有して受容していくのか、人それぞれを貫徹するのかは、WLBを推進するうえで決めておくべきだろう。
さて、ここで実践的かつ重要な課題として、現実的にWLBにどう向き合うべきかについて考えてみたい。
発端となった高市氏のご家庭をモデルに考えてみよう。壮年期を迎えた方が組織で要職に任じられた。とても大事な仕事で、人生を懸けても向き合いたい。ただパートナーが病気で、要介護の状況にある。どうすればいいだろう。仕事を「諦める」のか?
WLBを奨励する流れのなかで「そんな仕事、仕事言わずにゆるやかにやりなよ」としか言わない方もいる。それはそれでバランスを欠いている可能性もある。仕事を前向きに頑張っていて、要職に全力を費やしたい方にとっては、受容しがたいアドバイスではなかろうか。
現実的には、親族なりに介護を頼むという手段があろう。ただそれが可能とは限らない。それ以上に汎用的なのは、介護サービスを利用することだ。金で解決するといえば言い方は悪いが、それでどうにかなるならそうすべきだろう。
実際のところ、WLBは「外注」なくして実現しえない。子持ちの共働き家庭のほとんどは、保育園などのサービスを利用しているはずだ。掃除などの家事を外注する制度は日本では未発達だが、一般的な国もある。限定された時間と労力を仕事と家庭にいかに配分するのかという問題に対して、金銭と引き換えに外注を用いる。これは企業でも当たり前の選択肢である。
そして実際に介護サービスを利用するとしよう。その必要条件は、介護産業が存在することである。当たり前すぎる条件だが、そんなに当然のことではない。介護産業自体が存続すら危ぶまれるほどに人材の逼迫にあえいでおり、その背景には労働条件の劣悪さが挙げられる。
また、日本では家事代行の産業自体が小さい。家電製品のイノベーションはWLBの改善に寄与しうるが、電機メーカーはどこも再編を迫られていて、イノベーション投資を控えている。
WLBはときに「脱力・脱成長」とセットで語られる。仕事、仕事と言わずにゆるくやりましょう、みたいに。ただそのノリを介護産業や、公衆衛生やゴミ収集などのエッセンシャルワーカーにも同様に適用できるだろうか。われわれがWLBを保つために「外注」する相手方は、WLBとか言えない程度には困窮している可能性がある。
WLBの実現のための主たる外注先である人々もまた、別の問題に悩まされている。高市氏がWLBを捨てることと「引き換え」に、介護産業の労働環境が見直されて改善していくのであれば、それはすばらしいことだと思う。というか、そうなるべきだし、せっかくWLBに触れたならそういう政策に期待したい。
つまり、ある個人がWLBを達成したいと思うとき、いかに「外注」を駆使するかが重要な手段となる。しかし、外注を達成するためには、外注される側がそれを許容可能であることが必要だ。金銭を介さない場合でも、祖父母の力、友人の力、ご近所の力は利用可能なはずだが、社会的連帯の消失でそういった潜在的な力を活用できなくなっている可能性はある。
WLBを「当事者個人の努力」で解決しようとする発想からは離れるべきだ。無理だからである。むしろ有料サービスを含めていかに分業・分散可能か考え、そのボトルネックを改善していく。社会や集団のレベルでそうした仕組みが整わない限り、WLBを護りたい人の欲求も、捨てたい人の欲求も、満たされることはないだろう。
今後の日本社会で、われわれはWLBとどう向き合っていくべきか? 実はこの難問に対して、高市氏は既に答えているように思われる。再度引用しよう。
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(経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師 舟津 昌平)