千葉県銚子市の缶詰工場で働くホー・ティ・トゥイ・ニュンさん(38)は、毎朝8時から缶詰工場のラインに立つ。魚の頭と尾を機械で切り落とし、異物を手で取り除く。焼いた魚を網から下ろす繊細な作業もこなす。作業は工程ごとに分かれ、数時間おきに担当する工程が変わる。
「入ったばかりの頃はどの工程も戸惑いましたが、すぐに覚えました。担当がどんどん変わるけれど、全部慣れるとかえって面白いです」
ニュンさんはベトナム人技能実習生。8歳の子どもと夫を母国に残し、夏からここで働く。従業員80人のうち、同じ国からの技能実習生はニュンさんを含め16人。
缶詰工場の社長は話す。「銚子の1次産業は、外国人なしでは成り立たない。漁獲から水揚げ、卸売、加工まで、どの段階も彼らが支えている」
外国人なしで成り立たないのは銚子だけではない。ただ、経営者側には心配がある。外国人が将来、日本を選ばなくなる恐れだ。選ばれ続けるには、受け入れる側にある「意識」が必要という。それは一体何か。(共同通信=相山真依子)
*筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。
母国にいる息子が文字を書いてくれたというスマートフォンケースを見せるホー・ティ・トゥイ・ニュンさん=2025年10月7日
▽「母国の子どもに良い教育を受けさせたい」
ニュンさんが日本に来たのは、経済的な理由からだ。ベトナムでは毎日14時間働いても手取りは約8万円。生活費をまかなうのがやっとで、疲れ果てて子どもと過ごす時間もほとんど取れなかったという。
夫の収入が減り、生活がさらに厳しくなったのを機に日本で働くことを決めた。そのための費用として親戚たちから約60万円を借りた。この缶詰工場に応募したのは、30歳以上でも受け入れてくれたからだ。年齢制限がある企業が多かったという。
家族と離れて日本で働くことには葛藤もあった。
「小さい子どもを残して外国に来ることは難しい決断でした。それでも、帰国後にもっと家族との時間を過ごすため、そして子どもに良い教育を受けさせるために、いま頑張ろうと思いました」
家賃などを差し引くと月の手取りは13万円ほど。うち8、9万円を家族に仕送りし、残ったお金で節約しながら暮らす。
「寮では他のベトナム人と一緒に住むことができて、日本人の先輩を含め周りの人たちが助けてくれます。おかげで生活や仕事は順調です。銚子は港が近くて静か。ここで働けて良かったです」
ホー・ティ・トゥイ・ニュンさんがベトナムを出発する際に夫と息子と撮った写真
そう言った後で付け加えた。「でも一つだけ。やっぱり家族が恋しいです」
出国前に家族3人で撮った写真を見ながら話す。
「子どもに『3年じゃなくて、もっと早く帰ってきて』と言われた時は泣いてしまいました」
毎日、仕事を終えシャワーを浴びた後、子どもとビデオ通話をする。この時間が彼女の一日の癒やしだ。
田原缶詰の工場で作業するベトナム人技能実習生と日本人従業員=2025年10月7日
▽ベテランが担う作業も、日本人と肩並べる
ニュンさんが働く水産加工「田原缶詰」は創業96年。1日5万~10万個の缶詰を製造している。工場の壁には、服装や衛生管理の注意書きが、日本語とベトナム語で書かれている。実習生を受け入れ始めて20年ほどだ。
「おはようございます!」
実習生は朝7時40分ごろに家を出て、日本人従業員たちとあいさつしながら工場へやって来る。真っ白な作業着に身を包み、各工程の持ち場に着く。魚を缶に詰める工程は、スピードと正確さが求められ、ベテランが担う。ここでもベトナム人が日本人と肩を並べて作業していた。
田原缶詰で休憩時間中に仲睦まじく話すベトナム人技能実習生(左)と日本人従業員女性(右)=2025年10月8日
午前10時ごろの休憩時間には、実習生と日本人従業員たちの賑やかな笑い声が聞こえる。簡単な日本語やジェスチャーを交えて会話する。実習生たちは日本人従業員を「ママ」「お父さん」と呼ぶ。
実習生たちと同じラインで働く女性(70)は話す。
「日本語ができる子が通訳してくれるから、困らない。さっきも私が『目が痛い』と言ったら、『ママ眠いの?』って冗談を言われて。楽しくやってますよ」
田原缶詰の休憩所に貼られた、ベトナム語で自転車のルールを説明するチラシを紹介する田原義久社長=2025年10月8日
▽自転車を1人に1台、ヘルメットも
田原缶詰が実習生の受け入れを始めたのは、日本人従業員の高齢化と人手不足がきっかけ。田原義久社長(70)は、採用面接のために何度もベトナムを訪れ、現地の生活水準や雇用環境の厳しさを感じた。「実習生たちは、言葉も文化も違う中で頑張っている。だからこそ、日本にいる間は安心して働けるように応援したい」
若い労働者が多いベトナムでは、30歳を過ぎると雇用機会が極端に減るという。一方で、実習生を募集する日本企業も、20代前半までを条件とするところが多い。田原社長は、ベトナムに働き口がない母親世代が多くいると知り、3年前からはニュンさんのように30歳以上の女性も積極的に採用するようにした。
実習生たちの住まいは工場の近くに用意した。かつて金物店だった3階建ての空き家を買い取り、キッチンを増設するなど、暮らしやすいように改装した。
実習生たちには、1人1台ずつ自転車とヘルメットを支給している。自転車の交通ルールをイラスト付きで説明した警察提供の資料も、ベトナム語に訳して休憩スペースに貼った。
田原社長が理由を説明する。
「ベトナムでは2人乗りが普通。でも日本のルールを教えないと、訳も分からず罰金を取られてしまう。そんなのかわいそうでしょう」
警察官とともにパトロールを行うベトナム人技能実習生たち=2025年7月29日
地域とつながるための取り組みもある。実習生たちは月2回ほど、銚子署の警察官とともに防犯パトロールで市内を歩く。すれ違う人たちに笑顔であいさつしながら歩く姿は楽しげで、市民も「頑張ってね」と声をかけていた。
この活動も、町内会の高齢化でパトロールの人手が減ったためだった。結果的に、実習生が地域の人と顔を合わせ、街に溶け込む機会にもなった。「国籍にかかわらず、元気に声をかけ合うことでつながりが生まれる」
技能実習生受け入れへの思いを話す田原義久社長=2025年10月8日
▽ベトナム人に選ばれる会社であること
これまでに何度も危機を乗り越えてきた。実習生たちが「帰りたい」と口にしたのは、2011年の東日本大震災の時。実習生が集団帰国してしまった企業もあった中、田原社長は工場で働く実習生をこう励ました。「私も一緒にここにいるから」。すると、翌日から仕事に戻ってくれたという。社長は強調する。「同じ人間としての連帯が大切です」
実習生たちに心を配り、信頼関係を築いてきた田原社長だが、それでも不安はある。彼女らが将来、日本に来てくれなくなる恐れだ。
「日本経済が停滞する一方、ベトナムは急速に成長している。日本より時給が高い国も多い。これからも彼女たちが日本を選んでくれるかは分からない」
さらに、周囲の企業では、実習生が突然姿を消して、同胞の紹介で別の職場に移る話を聞く。より良い待遇や環境を欲するのは、日本人でもベトナム人でも変わらない。しかし、同胞からの情報を頼りに移った先の職場で、一時的な労働力として「使い捨て」のように扱われるケースも多いという。
田原社長は話す。「うちで働くと決めてくれた以上、責任を持って見守りたい。ここで働いている間は、お父さんのつもりで一人一人に目を配っています」
▽更新して働き続ける人は3分の1
実習生は3年間の雇用期間を終えた後、母国に帰国する人もいれば、在留資格を「特定技能」に移行して工場で働き続ける人もいる。
ニュンさんは、実習期間が終わる3年後に経済的な余裕ができていれば、子どもと一緒に暮らすために帰りたいと思っている。「しっかりと面倒を見て、自分の手で育てたい。でも、その時まだ経済的に厳しければ、その後も日本に残ることになるかもしれません」
同僚のグエン・ティ・キム・トンさん(40)は今年8月に特定技能に移行し、家族への仕送りのために働いている。母国には20歳の娘と18歳の息子がおり、手取りの約半分を家族に仕送りする。
「自分はできなかった大学進学を子どもたちにはさせてあげたい」
夫の稼ぎでは大学の学費をまかなえなかったため来日。現在、上の子どもが大学で経済学を学んでいる。
30歳以上の女性にとって母国での就労が難しいことも影響し、最近では3分の1ほどが更新を選択するという。
これからも選ばれ続けるために必要なことは何か。田原社長はこう明かした。
「単なる『労働力』が来るのではなく、一人一人のライフプランと選択権を持った人たちが働きにくる。それぞれの選択を尊重したい。その中で継続を選んでくれたのであれば、これまでどおり応援したい」