1944年11月、瀬戸内海に面した広島県の忠海高等女学校に通う約160人が、沖にある大久野島に集められた。周囲4キロほどの小さな島は、当時の地図には載っていない。島にある工場が、高度の軍事機密下に置かれていたからだ。
工場の正式名称は「東京第2陸軍造兵廠忠海製作所」。 160人のうちの1人で、15歳だった岡田黎子さん(96)は、入所式での所長の訓示を覚えている。
「ここでの兵器生産は極秘である。家族といえども言ってはならない」
何をさせられるのかは見当もつかない。ただ、「正義の戦争に参加する名誉ある国民」として懸命に働かなければ、と思った。それが後に半世紀を超えて社会の脅威になるとは、思いも寄らなかった。(共同通信=辰巳知二)
大久野島=6月、広島県竹原市
▽直径10㍍の風船爆弾 岡田さんたちは毎朝、広島県の自宅から列車で港まで行き、船で大久野島に通った。列車内では憲兵が常に目を光らせ、島が見える海側の窓は、よろい戸が閉められていた。 まず携わったのは「風船爆弾」の製作。最初に和紙5枚をこんにゃくのりで貼り合わせて強化する。終わると下から光を当て、傷の有無や強度が足りない箇所がないかをチェックして補修。その後は、専門の工員が紙に耐久性を持たせる「なめし処理」を行って強化した。 補修となめし処理を繰り返して原紙を完成させ、貼り合わせると球体になるように裁断した。 「冬場で寒く、こんにゃくのりは氷のように冷たかった。裁断した原紙の貼り合わせは、手の指を後ろに強くそらすよう言われたが、それがうまくできなくて、見張り役の軍人の中尉にしごかれた」 風船爆弾は直径10㍍の巨大な兵器だ。組み立てが終わると半球になるまで空気を入れ、中に女学生が入り、外に向かって光を当てて強度不足の部分を探してさらに補修した。完全な球状になるまで空気を入れ、はけで表面にラッカーを塗って完成させる。 「軍人からは、水素ガスで膨らまして爆弾をつり下げ、米国で爆発するよう設計されていると聞いた」 結果を知ったのは戦後になってから。「米西部オレゴン州で6人の子どもが風船爆弾によって亡くなったと知り、戦争加害性を自覚した」
現在も大久野島に残る毒ガス貯蔵庫跡=6月、広島県竹原市
▽迫る米軍の空襲 1945年に入ると、戦局は一段と悪化。日本の主要都市に対する米軍の空襲が激化し、6月には沖縄が陥落した。翌7月、大久野島の岡田さんたちはある命令を受けた。 「ドラム缶を、保管庫から桟橋まで運搬せよ」 中身が何なのか、詳しい説明はない。配られた軍手をはめ、一つの大八車にドラム缶を4、5個積み、保管庫から桟橋までの片道1㌔を、1日に13往復した。 この時、大人たちから奇妙な注意を受けた。「運搬で使った軍手で、素肌に触れないように」
大久野島の周辺地図
ドラム缶に入っていたのは、実は毒ガス兵器の原料。島で毒ガスを製造していたことは知らされていなかったが、岡田さんたちにはなんとなく分かっていた。作業に当たった生徒たちに異変が起きていたためだ。
昼食後に友人2人が松の葉をようじ代わりにしたところ、歯茎やほおが腫れ上がった。ドラム缶に腰かけた人は、尻に水ぶくれができてその後、長く苦しんだという。島で学徒たちに防毒マスクが配られたこともあった。 「運搬途中にはカーブがあり、重さで海に落ちそうになる。危険な作業だった」
動員学徒たちが毒ガス原料を近隣の島に疎開させた様子を描いた岡田黎子さんの絵(岡田さん提供)
ドラム缶は船で近隣の大三島に運ばれ、畑に埋められたと聞いた。 運搬を命じられた理由について、岡田さんが説明する。 「当時、近くの契島が爆撃されたことがあった。アメリカ軍は大久野島と間違えたのだろう。毒ガス兵器がある大久野島が攻撃されたら被害が拡大するから、原料運搬の命令が出されたのではないか」
広島市の原爆ドーム
▽被爆者救護にも動員 8月15日、学徒たちは島内の広場に集められ、天皇が敗戦を告げる「玉音放送」を聞いた。岡田さんは冷静に受け止めていたという。 「負けるのは明らかだと思っていたから」 戦時中、学校では日本が勝ち続けていると喧伝されていたが、母親は岡田さんにこう言っていた。 「どうして負けるのが分かっているのに戦争をするんじゃろう」 岡田さんにアメリカ製の口紅を見せ、日本が戦っている相手国の豊かさを説明していた。「学校で聞くことと、母の言うことを比べ母の方が正しいように感じた」 終戦から三日後の18日、岡田さんは広島原爆の被害者を救護する活動に動員され、広島市近郊にある中学校の講堂に向かった。そこが救護所になっている。 目にしたのは凄惨な現場。人が毎日亡くなる。「弱った体にウジがわく湿った世界だった」 救護活動を2週間続けた中で、家族全員が死亡した男の子のことが忘れられないという。 「おにぎりを配りに行ったら、おなかが膨れて体の半分の肉がそがれていた。自分が大人だったら家に連れて帰るのにと思った。涙が止まらなかった」
戦時中の体験を語る岡田黎子さん=6月、広島県三原市
▽「加害を反省し平和につなげよ」 岡田さんは戦後、京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)で学んだ後、広島に戻り、高校で美術教員を務めた。ただ、戦争時の過酷な経験は、岡田さんの健康をむしばんでいた。 大久野島に通ったことによる慢性気管支炎に苦しみ、毒ガス障害者向けの「医療手帳」を受け取った。さらに、原爆投下から2週間以内に救護のため広島市内に入ったため、後に「入市被爆者」とも認定された。被爆の後遺症にも苦しんだ。 自らの戦争体験から一つの信念にたどり着いた。 「戦争の加害を自らの責任として受け止め、直視し、反省し、謝罪し、補償し、友好・平和につなげるべきだ。日本もいつ戦争するか分からない。国民一人一人が惑わされず、皆で戦争阻止の方向にいかんといけん」
岡田黎子さんが戦争体験を描いた画集。1989年に出版
最も警戒すべきは「国家主義」と声を振り絞った。 教員退職後の1989年に自らの戦争体験を記録した画集を出版。中国人戦争被害者らに送り反省と謝罪の気持ちを伝えた。その後も絵と文で反戦を訴えている。
終戦まで毒ガス兵器が製造された大久野島の忠海製造所=1946年
▽悪魔の原料「シモリン」 あの「ドラム缶」に入っていた「毒」は、一体何だったのか。岡田さんは1980年後半、大久野島で動員学徒を指揮していた元責任者に電話で聞いた。返ってきた答えは「シモリン」。旧陸軍内で使われていた通称名であり、正式には「ジフェニールアルシン酸」という有機ヒ素化合物だ。シモリンは、大久野島で製造した毒ガス兵器の一つ「あか剤」の原料だった。 この名称を、岡田さんは21世紀になって聞くことになる。
水質基準の450倍のヒ素が検出された井戸周辺の地中をレーダー探索する技師ら=2003年5月、茨城県神栖町(現神栖市)
2003年、茨城県神栖市の井戸から水質環境基準の450倍のヒ素が検出された。井戸水はこの地域では昔から飲用水として使われており、150人を超える住民たちが原因不明の健康被害に苦しんでいた。 行政が詳しく解析した結果、自然界には存在しないジフェニールアルシン酸であることが判明。その後の調査で、この有機ヒ素化合物がコンクリートに混ぜられ、空き地の地中に埋められていたことが分かった。時間をかけて地中に漏れ出し、地下水を伝って井戸水に混入した可能性が高い。 国の公害等調整委員会も2012年、住民の体をむしばんだ原因はジフェニールアルシン酸と判断し、茨城県の賠償責任を認めた。 コンクリート詰めの毒物を、誰がいつ投棄したのかは分かっていない。ただ、コンクリートからは1993年製造と刻印された飲料の空き缶も見つかっている。つまり、埋められたのは少なくともこの年より後ということになる。この毒物は紛れもなく「シモリン」であり、これを原料に毒ガスの「あか剤」を製造していた唯一の施設は大久野島の秘密毒ガス工場だった。 戦時中に製造された毒ガス兵器の原料が、21世紀に日本人を襲っていた。茨城県のニュースを伝え聞いた岡田さんは、こう語った。「国は毒ガス原料をしっかりと処分せず、管理もずさんだったわけで、本当に無責任です。強い怒りが湧いてきます」
※後編「手の震え、頭痛…家族4人がなぜか体調不良に、原因は「おいしい地下水」に混入していた「毒」だった」は31日10時に公開予定です。