大統領に「銃社会NO」
米国から日本へ帰る飛行機の機内。薄暗がりの中、気づけば起きているのは自分だけだ。ふと、声がした。「泣いてばっかおらんと、何かやってくれ」。服部美恵子さん(78)=当時44歳=の耳元で、確かに息子がそう語りかけてきた。
息子の剛丈(よしひろ)さん=同16歳=を米国留学に送り出したのは1992年8月。2か月後の10月17日夜、息子はハロウィーンパーティーの訪問先を間違え、「フリーズ(動くな)」と警告してきた住人の男に射殺された。
引き取った遺体は今、飛行機の貨物室にある。だがその声に、「剛丈の死をこのまま終わらせてはいけない」と直感した。ノートとペンを取り出し、銃規制を訴える文章を無我夢中で書き記した。宛名は米国大統領。撃った男への憎しみはなくなっていた。(社会部 浜田萌)
その場所がどこだったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、広々とした空間に、剛丈(よしひろ)さんが穏やかな顔で横たわっていたことは記憶している。体に触れると彫刻のように冷たく、硬い。まだ16歳の剛丈に留学を勧めたのはこの私だ。「許して!」。服部美恵子さん(78)は息子の遺体に取りすがり、叫び声をあげた。
名古屋市の自宅で小さな英語塾を営み、1975年、自動車部品会社の技術職だった夫の政一(まさいち)さん(78)との間に、長男の剛丈さんをもうけた。姉と弟に挟まれてひょうきんな子に育った剛丈さんに留学を提案したのは、「自由の国アメリカを見て、差別意識や偏見を持たない人間になってほしい」と考えたから。92年8月、「アメリカを第二の故郷にしたい」と希望に胸を膨らませる息子を笑顔で見送った。
事件は同年10月17日夜に起きた。その日、剛丈さんは米南部ルイジアナ州バトンルージュで、ホームステイ先であるヘイメイカー家の長男ウェブさん(当時16歳)と一緒に、別の留学生の滞在先で開かれるハロウィーンパーティーに招待されていた。民家の呼び鈴を鳴らした2人。が、そこは違う家だった。訪問先を間違えたのだ。
「フリーズ(動くな)」。開いた扉の向こうで住人の男が警告した。その意味を理解できなかったのか、剛丈さんは歩みを止めない。次の瞬間、男が放った1発の銃弾がその左胸を撃ち抜いた。
帰国の機内、「剛丈の声」聞き無心で請願書
信じがたい知らせを受け、美恵子さんは政一さんと米国に向かった。遺体との対面、急きょ開いた記者会見、教会での追悼式。嵐のような5日間が過ぎ、剛丈さんの遺体を引き取って日本へ帰る飛行機に乗り込んだ。
様々な思いが駆け巡る。もしもあの子が「フリーズ」の意味を分かっていたら。銃がちゃんと見えていれば……。「たられば」ばかりが浮かんでは消える。
こうも思った。そもそも銃がなければ、息子が死ぬことはなかったはずだ。一般市民が銃を所持しているという事実の異常さ、怖さ。撃った男も銃社会の犠牲者の一人なのかもしれない。16歳の子どもを銃で殺すことができる社会など、絶対におかしい――。
その時、確かに聞こえた「何かやってくれ」という息子の声。まさに「天から降ってきた」感覚だった。「剛丈がこの世に生きた証しとして、何か仕事をさせてやりたい」。撃った男を責めても、問題は解決しない。日本人から見た、銃社会の異常さを変えたい。自分でも驚くほど冷静に、今やるべきことを見定めていた。
機内で、「アメリカの家庭から銃の撤去を求める請願書」を書き上げ、帰国翌日の通夜で、清書した請願書を弔問客に配って署名を集め始めた。ごく普通の一般人である私が、こんな大それたことをするなんて。「剛丈に動かされている」。そう感じた。
ホスト夫妻と絆、署名180万筆集め…規制訴える
共に署名運動に動き出した人がいた。ほかでもない、剛丈さんのホームステイ先だったヘイメイカーさん夫妻だ。
「預かっていたヨシを死なせてしまった」。事件後、妻のホリーさん(81)は罪悪感に打ちのめされていた。申し訳なさで、服部さん夫妻と目を合わせることすら怖い。それなのに、日本から駆けつけた美恵子さんと政一さんが最初に発した言葉は「ウェブ君は大丈夫?」「息子を世話してくれてありがとう」。胸が張り裂けそうだった。
最初に行動を起こしたのは、夫のリチャードさん(85)だった。米国では当初、ヨシが射殺されたニュースは地元紙が小さく扱っただけ。「銃は狩猟用に限定されるべきだ」とニューヨーク・タイムズに寄稿し、自ら署名集めを始めた。全米各地の銃規制団体にも呼びかけ、それまでバラバラだった団体の活動を一つの大きなうねりにつなげた。
海をまたいだ二つの家族の願いは、93年11月、クリントン米大統領(当時)との面会という形で結実する。服部さん、ヘイメイカーさんの両夫妻らがホワイトハウスに招かれ、日米で集めた計約180万筆の署名の一部を大統領に手渡した。大統領は「銃暴力はなくさなくてはならない」と力強く語り、直後に、米議会で銃購入希望者の犯罪歴確認を義務づける法律が成立した。
この年、服部さん夫妻は「銃がなくても安心して暮らせることを知ってもらいたい」と、剛丈さんの死亡保険金などを原資に、米国からの留学生を支援する「YOSHI基金」を設立。夫妻は度々米国に赴いて銃規制を訴える集会に参加し、日本でも講演を重ねた。息子を失った悲しみ、苦悩、後悔は消えない。美恵子さんは活動に打ち込むことで、なんとか心のバランスを保っていた。
一方で、家族の間には微妙な溝が生まれていた。
自分は活動にすべてをささげているのに、政一さんは相変わらず仕事で忙しくしている。「どうして親なのに、務めを果たさないのか」と責める気持ちが募り、ささいなことで夫婦げんかが増えた。長女と次男に対しても、「なぜこんなに平気な顔をして普通の生活を送れるんだろう」となじる思いさえ抱くようになっていた。
家族が無関心だったわけではない。次男の朗さん(47)は事件当時、中学3年生。母の精力的な活動に「自分は何もやっていない」と引け目を感じつつ、受験を控え、「自分の人生を生きたい」という気持ちも交錯していた。
自宅には、「米国への内政干渉では」と批判したり、毅然(きぜん)とした態度の美恵子さんを「なぜ泣かないのか」ととがめたりする匿名電話もかかってきた。活動の裏で、美恵子さんの心には孤独感が膨らんでいった。
留学生招く基金、安心な日本知ってもらう
「Always with you(いつも共にいます)」。そんな時支えてくれたのが、ヘイメイカーさん夫妻だった。お互いの近況をファクスでやりとりし、米国にも日本人留学生の悲劇を悼み、銃規制を求める声が多くあることを折に触れて伝えてくれた。
救いはほかにもあった。剛丈さんを撃った男は刑事裁判で無罪となったが、民事裁判では正当防衛が認められず、全面敗訴した。
YOSHI基金で米国から受け入れた若者たちも育ってきた。2007年にバトンルージュから日本に留学したマシュー・プルッツさん(35)は「銃を持たない日本社会に触れ、身を守るために銃を持つアメリカ人に、銃はむしろ危険を増やしていると伝えていくべきだと学んだ」。
月日がたち、必死に活動にひた走ってきた美恵子さんの心にも余裕が生まれ始めた。「親としてやるべきことをやる」との決意で、時には仕事を休んで講演や集会に一緒に参加してくれた政一さん。署名集めに奔走した剛丈さんのクラスメートたち。孤独を感じていたけれど、振り返れば、味方はたくさんいた。
小さな声、上げ続ければ「きっと変わる」
事件から30年を迎えた22年秋、美恵子さんと政一さんは活動に一区切りをつけた。夫婦ともに古希を過ぎ、「そろそろ休もうかな」と心の中でつぶやくと、「よく頑張ったね」と、剛丈さんのあの声がまた聞こえた気がしたからだ。活動団体の代表者を、米国史を研究する名古屋市立大学准教授の平田雅己さん(57)に引き継ぎ、自分たちは次世代を支える側に回った。
これまでYOSHI基金で受け入れた留学生は34人。剛丈さんが通っていた愛知県立旭丘高校では、同校の生徒と留学生が銃規制について議論する交流会が15回を超えた。平田さんは「主張を押しつけるのではなく、相手の意見を尊重しながら自分の意見を伝える。分断社会が懸念される現代にあって、服部さん夫妻の対話の仕方から学ぶべきことは多い」と感じている。
25年11月、美恵子さんと政一さんは4年ぶりにオンラインでヘイメイカーさん夫妻と顔を合わせた。美恵子さんの趣味である絵や野菜づくり、ホリーさんとリチャードさんの孫の成長など、たわいもない会話に花が咲く。
実は、ヘイメイカーさん夫妻にも4年ほど前に悲劇があった。目の前で剛丈さんが撃たれるのを見たウェブさんが46歳で自ら命を絶ったのだ。心理療法士として働いてきたが、事件後ずっと心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいた。
お互いにあの1発の銃弾に息子を奪われ、「銃なき世界」を求めて活動してきた二つの家族。米国では現在も毎年のように銃の乱射事件が起き、23年の銃による死者は自殺者も含め4万6000人以上に達する。「身を守るために銃を持つという意識は根強く、それは簡単に変わらないと私も分かっている」。息子が「第二の故郷に」と夢見た米国が、間違った方向に進んでいるようにも感じる。
それでも美恵子さんには一つの信念がある。米国社会の現状を嘆くヘイメイカーさん夫妻に、画面越しにこう語りかけた。
「剛丈が死んで33年。息子のおかげで学びました。『私たちの声は小さくても、言い続ければきっと変えられる』。それをあなたに伝えたい」
はまだ・もえ 2010年に入社し、現在は東京社会部に所属。米国での取材の際、ヘイメイカーさん夫妻に服部さん夫妻とのオンライン通話を提案した。悲劇を絆に変えた、二つの家族の強さと優しさを見た。38歳。