動き出した解散総選挙、その最前線で働く議員秘書たち 「落選すれば失職」の現実が「なり手不足」につながる

高市早苗首相が2026年1月14日、通常国会(23日召集)の冒頭に解散するとの決意を自民党幹部に伝え、選挙の先兵とも言われる議員秘書たちが一斉に走り出した。地元の支援者とともに、当落をかけて闘う昔ながらの選挙戦の姿が残る一方で、落選すれば議員とともに失職という厳しい現実は、秘書の「なり手不足」にもつながっている。新人とベテランの2人の秘書から見た「国の政治現場」を追った。
秘書修業、「東京の議員会館で2割、選挙区地元では半数が議員目指す」
無所属の福島伸享衆院議員(55)の政策秘書になって2年目の山田克登さん(28)。14日朝も氷点下の茨城県水戸市内の交差点で福島代議士と「辻立ち」を始めた。新年会続きの3連休は、「冒頭解散か」の話題で持ちきりとなり、エンジンが加速した状態だ。12日の打ち合わせでは、連休明けから夜を徹して選挙準備にとりかかることになった。
山田さん自身、将来は生まれ故郷の九州からの出馬を目指している。大学4年の春、「ただ働きでいいから国会議員の地元の現場を経験したい」と友人に頼んで、水戸市内の支援者の空き家に寝袋をもって住み込んだ。落選中の福島陣営の県内二か所の事務所では私設秘書が3人で日程調整や電話番、看板立てなどを分担していた。山田さんは運転手をしながら、辻立ちや支援者のあいさつ回りについて歩いた。土日もなく3か月。その働きぶりを認めた地元支援者から代議士に直談判があり、少しばかりの給与が出た。
驚くべき地元支援者たちのパワー
驚いたのは、地元支援者のパワーだ。業界団体のしがらみもない人たちが街宣車を運転して、毎朝30人近くの人が旗を立てて並んだ。その秋の選挙で、福島氏は10万票を超える得票で3度目の議席に返り咲いた、3年後も連続当選、03年の初挑戦以降8回の選挙で、4勝4敗とした。その後、山田さんは、大学の卒業試験を経て2年ほど企業で働き、24年春に政策秘書として福島事務所に復帰した。
議員会館や地元などで、周囲を見まわしてみると、政治家志望の秘書の割合は、体感として、議員会館では2割、地元の私設秘書は半分が国会・地方議員になるべく、代議士と行動を共にしている。山田さんは議員会館を一人で守り、代議士への官僚のレクチャーに同席、政策勉強を進めている。山田秘書にとって、代議士の大きな背中は、なお遠い。
「民主党」の変遷と歩んで25年余、うち「失業」も計3年
次に、立憲民主党の後藤祐一国対委員長代理(56)の藤巻浩秘書(59)。解散報道があった10日の夜に、長時間の打ち合わせをして、選挙区の神奈川16区の厚木市に選挙事務所を確保するなど、連休中から選挙準備をスタートさせた。年末に「通常国会が23日召集」と決まった時点で、「年明け解散なし」が与野党の共通認識となったため、国会閉会の12月下旬から正月明けまではゆっくり休めたが、それが一気に吹き飛んだ。
議員会館は藤巻さん一人で守り、地元3人との「4人体制」だ。代議士は自分で国会質問を書くタイプのため、バックデータ集めが専門だが、事務作業全般とゴミ出しまでやってきた。
自民党でも秘書を多数抱える議員はいなくなった
藤巻さんが民主党系の秘書になったのが2000年夏。
間もなく民主党代議士が「秘書給与流用事件」で逮捕され、02年には社民党代議士も逮捕された。秘書給与流用事件は、これ以前に自民党でもあった。当時は、親族を秘書名義として秘書給与を流用する事案が後を絶たなかったが、04年の法改正で、公設秘書への寄付の勧誘、要求が禁止された。藤巻さんは、事件に巻き込まれることはなく、以降は、給与がらみの不正は周りでは聞かなくなったという。
日本の国会議員には公設秘書2人のほかに、1993年に政策担当秘書が導入された。官僚主導とされる日本の法案作成の慣習に、議員による立法を増やそうとした試みだ。藤巻さんによると、「野党だと秘書は4~5人が普通ですね。自民党さんでも10人以上、というのは珍しくなりました」。
その後。05年に担当代議士が落選。生き残った議員の事務所の手伝いなど、2年弱はフリーターのような暮らし。政権交代を経た野党転落後の13年に、再び担当議員が落選。都議会議員の事務所を手伝ったりしていたが、派閥互助会のような助け合いがあった自民党とは異なり、民主党は党の支援は一切なかった。09年の民主党政権交代も含め計3人の議員の秘書を務め、まさに「激動」の時代だった。
「官僚機構が与党に提供する資料の多さには驚いた」
14年以降は、後藤氏の事務所に定着したが。野党に戻った民主党は分裂、再編を繰り返しつつ多党化の時代へ。藤巻さんは「忍耐」の時代、と振り返る。
民主党が政権の座にあった3年間は、「官僚機構が与党に提供する資料の多さには驚いた」そうだ。しかし、民主党は準備・経験不足で再び野党に転落。転落した時の総選挙では「143人の当選1回生の生き残りがわずか5人(後藤氏もその一人)」だった。当時の民主党政権を経験した議員が、「悪夢」をいまでも引きずっているのではないかとの思いがある。
「ここ数年は、書生のような形で、われわれの手伝いをしようという意欲のある人はほとんどおらず、正規の採用への応募さえほとんどない状況だ」という。まさに「秘書のなり手不足」の現状が目の前にある。再び「短期決戦」となる戦いを前に、あらためて厳しい覚悟を自らに課している。
政治の最前線で働く、議員秘書の実感である。
(ジャーナリスト 菅沼栄一郎)