2012年1月15日、雪が積もる真冬の北海道で中学1年生だった佐藤智広さん(当時13歳)が行方不明になった。14年が経った今も智広さんの足取りは分かっていない。記者は、智広さんと同郷で、元チームメートだった。当時の記憶を振り返り、記録する。(社会部 深野景太)
2012年1月15日、北海道旭川市。中学1年生だった佐藤智広さん(当時13歳)は、自宅を飛び出し行方不明になった。あれから14年が経過し、報道で智広さんの名前を見かけることはほとんど無くなった。
しかし、私にとって「佐藤智広」という少年は、短い期間ではあったが、サッカーチームでともに時間を過ごしたチームメートの一人である。私は小学6年生の頃、智広さんと同じチームでサッカーをしたことがあった。小学校は別だったが近所の小学校に通っていて、どちらも部員数が少ないチームだったため合同チームを組み、一緒に試合に出ることになった。共に練習をした期間は数か月ほどで試合に出たのも一度きりだったが、智広さんは、責任感があり、仲間思い。チームメートとして頼れる存在だったことを今でも覚えている。
智広さんが自宅を飛び出したのは、14年前の午後9時半ごろ。1月、夜の旭川は氷点下10度を超えることも。
母・舞さんによると、そんな気候の中、智広さんが当時着ていたのは、黒色のダウンコートにグレーのズボン、そしてスニーカーと軽装だった。また、持っていたのはダウンコートのポケットに入っていた財布のみで、携帯電話も家に置きっぱなしだったという。智広さんは行方不明になった日、母に部屋を片付けるよう注意を受け、口論に発展。凍える寒さの中、外へ飛び出していった。智広さんが家を出てから約1時間…なかなか帰ってこないことを不審に思った母が、車で近所のコンビニエンスストアなどを捜し回るも智広さんの姿はどこにも無かった。母は翌朝、警察に連絡し捜索願を出した。
その頃は、ニュースで智広さんの件が取り上げられ、近所の道路や学校などがテレビに映った際は、智広さんへの心配の気持ちと、ぞっとするような恐怖心を覚え、子どもながらにことの重大さを感じていた。
その後、母・舞さんは、智広さんの友人や学校の先生、生徒の親などにも協力してもらい、市内でビラ配りをしたり、貼り紙をしたりするなど、情報提供を求めた。
しかし、母の携帯電話にかかってくるのは「本当にいなくなったんですか?」などといった興味本位の電話、ワンコールのみの着信(ワン切り)や、無言電話といったいたずら電話ばかり。毎日のようにこのような電話がかかってくる生活が半年ほど続いたという。
智広さんが行方不明になってから約3年が経過した頃、行方不明者を捜索するという内容の特別番組で、智広さんが取り上げられた。その番組内で、智広さんが新宿でホストとして働いているという情報が上がった。それから母は年に1度上京し、わずかな希望を頼りに新宿などでビラ配りの活動を行ったが、手がかりは見つからなかった。
一方で、智広さんが行方不明になってから4年が経過した2016年。新宿で配っていたビラを見てか、母の携帯電話に1通のメッセージが届く。それは公衆電話を利用したものだった。内容は「タスケテ!トモヒロ!」。母は警察に相談したが、公衆電話からのメッセージということもあり、智広さんが送ったものなのか、どこから誰が送ってきたものなのかは分からなかった。このメッセージは、さらに3年後の2019年にも同じ内容のものが送られてきている。
2026年1月15日、智広さんが行方不明になってから14年が経過した。智広さんは、現在27歳になっている。
去年4月、大阪のお店から警察に「智広さんに似ている人物がいる」という情報提供があったが、別人だったことが分かっている。母・舞さんには、情報提供が入るたびに期待と落胆を繰り返す現実が今も続いている。身分証も無い状態できちんと生活できているのか、今どこで、どんな日々を送っているのかを心配しながら「連絡だけでもしてほしい」と語り、今もなお、智広さんの帰りを待ち続けている。
警察庁によると、2024年、全国の行方不明者数はおよそ8万2000人にのぼる。
一方で、報道や世間の関心は発生直後に集中し、年月とともに薄れていく。しかし、行方不明者が見つからない限り、その出来事は家族にとって終わることはない。
私は、智広さんの人生にほんの一瞬でも関わった友人の一人として、この記事を通し、今も続く現実にもう一度焦点を当てるきっかけになればと思っている。