2001年、新宿歌舞伎町の雑居ビルで火災が発生。44人が亡くなった。警視庁は放火の疑いがあるとみて捜査したが、今も犯人は特定されてない。未曾有の大火災から25年となる中、NHK総合テレビで夜10時から放送中の「未解決事件」File.13では「新宿歌舞伎町ビル火災」に迫った(2月28日放送)。取材班は、4か月にわたる取材期間に、事件で家族を亡くした人々へ話を聞いた。遺族たちはいま、どのような思いを抱えているのか。(取材・文:NHK「未解決事件」取材班/全2回の1回目、 後編 に続く)
◆ ◆ ◆
知られざる遺族の25年
25年前(2001年9月1日)に起きた「新宿歌舞伎町ビル火災」。金曜の深夜、仕事を終えた人たちでにぎわう街の中心部で、1軒の雑居ビルから突然、黒煙が噴き出した。3階のマージャンゲーム店・4階の飲食店に居合わせた客と従業員、44人の命が奪われ、東京消防庁創設以来、未曾有の大惨事となった。
しかし今、一体どれほどの人が、あの火災のことを覚えているだろうか。
現場のビルはすでに取り壊され、火災を思い起こさせるものは何も残されていない。若者や外国人観光客は何事もなかったかのように素通りしていくのが現実だ。
ご遺族の25年を知りたい
取材のきっかけは7年前。駆け出しの警視庁担当記者だった取材班のメンバーは、「歌舞伎町ビル火災」発生日の9月1日に向けてリポートを出すため、娘を失った母親への取材を行った。「放火犯を捕まえてほしい」という強い気持ちを言葉にしてくれた一方で、「娘が亡くなった場所が、歌舞伎町だった」ということについては、細かく触れられたくないような、どこか割り切れない思いを抱えている様子も感じられた。ご遺族の心の傷は、こちらの想像をはるかに超えた深さがあるのかもしれない。放火の可能性が高いと指摘されながらも特定されていない現実に加え、ご遺族の中に決して癒えることのない痛みがあるとしたら、 その双方の“未解決”に向き合う取材ができないか。そうした思いが、今回の番組の出発点だった。
亡くなった44人は地方出身者も多く、ご遺族とひと言で言っても、その立場は様々だ。息子や娘を失った親、親を失った子、夫を失った女性……。どのような思いを抱えながら、ご遺族はこの25年を生きてきたのか。
4か月の取材期間で連絡がとれたご遺族は、32人。しかしそのほとんどの反応は、「どうして今更。思い出させないで」「その話はもう聞きたくない」という非常に厳しいものだった。
「もし、あの時…」後悔を背負い続ける遺族
しかし、そうした中でも、取材に応じてくれた方々がいた。
3階のマージャンゲーム店の従業員だった井上正仁さん(当時30歳)は京都で生まれ育ち、「俳優になりたい」という夢を追って、高校卒業と同時に上京。俳優が主宰する劇団に所属し、CMやドラマなど、活動の場を少しずつ広げていた。生活費を工面するため、新聞配達や百貨店での配送業務、警備員、マージャンゲーム店の従業員など、複数のアルバイトをしていたという。
父親の正さん(84)が今も大切にしているのは、正仁さんから届いたメッセージカード。アルバイト先の百貨店の包装紙できれいに包まれたお菓子が時折実家に届き、そこには毎回、手書きのメッセージが添えられていた。「必ずビッグになる」。まっすぐに夢を目指す息子の姿が誇らしかったと、正さんは当時を振り返る。
「会ってもらいたい女性がいるから、今度、連れて帰る」。息子からの電話に、正さんと妻は胸を膨らませた。2人分の布団を準備して帰りを待っていたものの、正仁さんから「仕事の都合で、どうしても帰れなくなった」という連絡が入り、夫婦は肩を落とした。
そしてある時期を境に、正仁さんは電話にも出なくなった。正さんは心配しながらも、自身の体調が悪く、様子を見に東京へ行くことは叶わなかった。息子はきっと元気でやっているはずだと、信じるしかなかった。
正仁さんは、上京して以来、一度も故郷に戻れないまま、帰らぬ人となった。
正さんが、遺品整理のために正仁さんのアパートを訪れたとき、ポストは郵便物であふれ返っていたという。アルバイト先などで寝泊まりするような生活を送っていたのかもしれなかった。部屋の中には、著名な俳優が名を連ねる映画の台本が1冊、残されていた。
息子が電話に出なくなったのは、何か都合の悪いことでもあったのか。道半ばだった俳優業はどのような状況だったのか。あの時もし東京に行って確かめることができていたら、息子が命を落とすことはなかったかもしれない。その後悔は一生背負っていくものだと、正さんは静かに語った。
「お母さんは火事で死んじゃったんだよ」と…
ビル4階の飲食店に勤めていた多田千帆さん(当時23歳)。新潟・佐渡で生まれ育ち、18歳のときに結婚。その後、長女を出産した。幼い頃から猫が好きで、動物病院で働きたいという夢をもっていた千帆さん。専門学校への進学を目指し、家族3人で東京へと移り住んだ。しかし東京での暮らしは決して楽ではなく、夫ともすれ違うことが増え、別居。千帆さんは幼い娘をひとりで育てながら、歌舞伎町で働くようになった。
千帆さんの娘・香織さん(仮名・29歳)が話を聞かせてくれた。捨て猫を見つけてはアパートに連れて帰って育てていた母の姿、香織さんが寝ている布団の中に猫たちが入ってきたぬくもりが、今も記憶に残っているという。千帆さんが亡くなったとき、香織さんは4歳。周囲の大人から「お母さんは火事で死んじゃったんだよ」と聞かされて育った。歌舞伎町というのも耳にしていたが、具体的に母がどういった経緯で、どのような亡くなり方をしたのかまでは知らなかった。「どうして私には、母も父もいないんだろう」と精神的に苦しくなった時期もあった。
みずから調べようと心に決めたのは20歳を過ぎたころ。「44人が亡くなった火災」というのを手がかりに調べると、すぐにヒットした。母が働いていたのは、女性が接客する夜間営業の飲食店だったことを知るとともに、“防火扉”や“一酸化炭素中毒”など、初めて触れる言葉の数々があった。たったひとりで幼い子どもを育てながら夢を追い、少しでも早く必要なお金を得ようとしたらそうなるだろうなと、納得する自分がいた。一方で、母の仕事やその亡くなり方については、誰にも知られたくないという思いもわきあがり、亡き母への思いは揺れ動いた。
今、香織さんも、2人の子どもを育てる母親となった。子育てをしながらお金を稼ぐ大変さは身に染みているという。
「母なりに当時、一生懸命だったことはわかる。どんな仕事であったとしても、育ててくれたことには感謝したい。自分が親になり、そう思えるようになった」。そう語る香織さんの声には、芯の強さが感じられた。
「遺族が声をあげにくいということが、事件の風化にもつながる」
番組では最終的に、カメラ撮影に応じてくださったご遺族や、直筆でお気持ちをお寄せくださったご遺族の声を中心にお伝えすることになった。しかし取材者として日頃から感じているのは、放送では伝えきれなかった方々の声ひとつひとつに、大切な意味が込められているということだ。
火災に巻き込まれて亡くなった女性の友人への取材で、はっとさせられた言葉がある。
「遺族が声をあげにくいということが、事件の風化にもつながるのではないか」
当時は亡くなった方々に対し、「あんな場所にいたほうが悪い」という心ない言葉も向けられた。ご遺族も被害者であるのに、後ろめたさなどから声をあげられない、身を隠さざるを得ないということは、二重の苦しみをもたらすものだったと想像する。一方、今回取材に応じてくれたご遺族からは、「事件を無かったことにはしないでほしい」という悲痛な思いも、数多く寄せられた。
報じることがかえって被害者の尊厳やご遺族の心を傷つけることにつながってしまわないか、常にそのジレンマと向き合い続けた取材だった。その明確な答えはいまも見いだせていない。それでも私たちは、あの火災で44人の命が奪われた現実が社会の記憶から消え去ることのないよう、今を生きる人たちの心に届く形を模索しながら、伝え続けなくてはならないと思っている。
◆
最終的に「放火の可能性が高い」とされながらも、事件の捜査を阻んだものは何だったのか。「犯人が見つかったら、ひと言、『どういう気持ちで生きてたの?』って聞けたら…」と語る遺族の思いとは。 後編 に続く。
〈 遺族は犯人に「どういう気持ちで生きてたの?」と聞きたいと…「放火の可能性が高い」→「それでも“未解決”」捜査のジレンマ 〉へ続く
(NHK「未解決事件」取材班)