『そろそろ帰ってきませんか』『ダメ出しを下さい』 “会えなくなってしまった”彼方のあなたへ…それぞれの思いつづった“15年目のメッセージ”『every.特集』

岩手県山田町。東日本大震災で甚大な被害を受けたこの町で、震災から15年がたった今だからこそ伝えたい思いをつづったメッセージが募られた。
気持ちがすれ違ったまま旅立ってしまった「幼なじみ」へ。いつもそばにいた「家族」へ。そして、優しかった「おばあちゃん」へ…など、「もう一度あの人に会えたら、伝えたいこと」をテーマにメッセージが寄せられた。
そして、メッセージを寄せた方たちを訪ね、話をうかがうと、あの日を境に会えなくなってしまった大切な人を思い続けながら、一歩前へ進もうとする応募者の15年が見えてきた。
太平洋を臨む、岩手県山田町。
2011年3月11日、この町を襲った大津波で680人を超える尊い命が失われ、いまも139人の行方が分かっていない(※関連死を含む・2026年2月現在)。
15年の月日が流れた山田町で、“ある募集”が行われた。それは、あの日を境に“会えなくなってしまった人”へ向けたメッセージを募る試みだ。
メッセージを寄せた方を訪ねると、大切な人を思い続けるそれぞれの15年があった。
東日本大震災で、甚大な被害を受けた山田町。震災15年にあたり、メッセージを募ったのには理由があった。
山田町 生涯学習課の福士幸枝さんは「記憶の風化がまず課題だなと思っています。やっぱり伝承は大事だなと思って、15年目の機会にメッセージという形で事業を行おうと思いました」と話す。
寄せられた20通は冊子にし、後世に語り継ぐ資料にすると言う。
『天国から見てダメ出しを下さい』
『会いたい あなたに』
『海に会いに行きます』 (すべてメッセージより抜粋)
その中の1通には、こうあった。
『たった一人の孫からのお願いです。そろそろ帰ってきませんか。家族で待っています』
『帰ってきませんか』、この一文が気になり、メッセージを書いた方に取材をお願いした。
そのメッセージは、山田町に暮らす、震災で被災した長根さん家族の娘の璃歩(りほ)さんが書いていた。
取材スタッフの「誰に向けてのメッセージか」の問いに、璃歩さんは「おばあちゃんですね」と答える。
宛先は、一緒に暮らしていた祖母の享(きょう)さん(当時78歳)。あの日、愛犬と避難する途中、津波に遭い、15年たった今も行方は分かっていない。
おばあちゃんは折りに触れ、「津波には気を付けろ」と、璃歩さんたちに伝えていたと言う。
長根璃歩さん
「家族の中で一番『(地震が来たら)避難するように』と、ずっと言っていたおばあちゃんだったので、ちょっと信じられない。そう言っていた、おばあちゃんだったのに『なんで?』って…」
たった1人の孫は、さぞかしかわいかっただろう。先に夫を亡くした享さんは、学校の宿題などいつも気にかけてくれた。
津波の怖さを、口を酸っぱくして教えてくれたおばあちゃん。中学2年だった孫娘は、29歳になった。
璃歩さんは「15年たったからこそ、自分が考えたり、思ったことを改めて文章にして振り返れないかなって」と話す。
璃歩さんらは、おばあちゃんと暮らしていた自宅の近くへ向かう。璃歩さんはおばあちゃんへ、こんなメッセージをつづっていた。
『おばあちゃんへの手紙 たった一人の孫より
普段から家庭で津波のことについて話していたので、一番話してくれたおばあちゃんのことだから、愛犬と裏山の八幡様へ避難しているものと強く信じていたんだよ。
あれから15年。いつも仏壇で話しているように、学校を卒業、就職し、2年前に県外からUターンして両親と同居して、またにぎやかに暮らしていること、見ていてくれたよね。
いつも見るおばあちゃんは、写真で笑っているけれど、時々声を聞きたくなります。
たった一人の孫からのお願いです。そろそろ帰ってきませんか。家族で待っています』
よくおやつを作ってくれたおばあちゃん。声が聞けなくなり、15年がたった。
璃歩さん
「『15年たって大人になりましたけど、私はあのまま、いつも通りの孫のままですって、いつも通り、当時のままの孫として待っているので、早く帰ってきてください』っていう感じですね」
たった一人の孫からの節目の便りは、「彼方(かなた)のおばあちゃんへ」届いただろうか――
メッセージの中に、誰に宛てたものか分からない1通があった。

『天国から見てダメ出しを下さい』
誰を思い書いたのか、取材をお願いすると快く応じてくれた。
このメッセージを寄せたのは、山田町で生まれ育った後藤夕香里さんだ。彼女は地震当日、娘の結婚式で町から離れていたため、家族3人全員無事だった。
現在県内の婦人会で活動する彼女に、取材スタッフが「どなたに向けて書かれた?」に尋ねると「幼なじみです」と答えた。
メッセージは“のりちゃん”と呼ぶ、幼なじみの河西典子さんへ宛てたものだった。
今回“のりちゃん”へメッセージを書いたのは、誤解が解けないまま彼女と会えなくなったことを「ずっと後悔しているから」だと教えてくれた。
15年前のあの時、母親と孫2人で自宅にいたのりちゃんは、震災から半年後に、無言の帰宅をしていた。
「(幼い頃は)もう近所で、気がついたら隣にいたっていう感じで。本当になくてはならない人だった、自分にとっては」と後藤さんは話す。
家がはす向かいで、同い年。優しく静かで、何でもできたのりちゃんは、そばにいるのが当たり前の存在だった。2人きりで旅行に行ったこともあった。
のりちゃんは結婚後、夫が経営する海苔(のり)の卸の手伝いに、実家の事や孫の世話と、忙しい毎日を送っていた。
一方の後藤さんも、夫の仕事を手伝いながら、合間を縫い、地域のボランティア活動に参加し、忙しくも充実した日々を送っていた。
後悔のきっかけは、東日本大震災の半年ほど前に、のりちゃんのところで海苔を買おうと訪ねた時のことだった。
後藤夕香里さん
「私が『(地域のボランティアで)のり巻きを作るから』って言ったら、(のりちゃんが)『いいね。自分が好きなことができるんだもの』って言われるの。すごくきくよ、そう言われると」
「好きな事が出来る時間があっていいね…」という、のりちゃんの言葉に「いやいや私だって、仕事も家事も精いっぱい頑張っているのよ」と返せなかった後藤さん。
心通じていると思っていた人からの、思いがけない一言が胸の奥に刺さったまま、のりちゃんは二度と会えない人になってしまった。小さな後悔が、大きな後悔になった。
だから後藤さんは“のりちゃん”を宛先に選んだ。今の自分が、彼女からどう見えているかと。
後藤さん
「“私も生きて15年間、必死でここまで頑張っていたよ”っていうのを認めてもらいたいのがあったんだと思う」
そして、考えながらこう続ける。
「私はのりちゃんに認めてもらいたかったのかな、自分が頑張っているのを」
“のりちゃん”のいない15年。ふるさと山田町で、自分なりに頑張ってきた姿を幼なじみは、見ていてくれただろうか――
幼い頃、のりちゃんと遊びに来た浜辺から、彼女へ“15年目のメッセージ”を届ける。
『天国の貴方(あなた)へ
しばらくは貴方の死を受け入れることが出来なかった私ですが、震災から2年位たった頃、目にいっぱいの涙をためた貴方の夢を見ました。
最後のお別れに来てくれたのかなと思うと、寂しい気持ちがこみ上げて来ました。
それから間も無く私は、地域婦人活動に参加する様になりました。
もう少し地域のために頑張りたいと思いますので、天国から見てダメ出しを下さい』
貴方のいないこの「ふるさと」で、私なりに、これからも頑張っていく――
帰り道、後藤さんはのりちゃんの夫・寛太郎さんの家へ向かった。震災後は足が向かなかったというこの家を、後藤さんが訪ねるのは初めてだ。
今回改めて深く、のりちゃんと向き合った事が背中を押したのだろうか。
後藤さんは、のりちゃんの遺影に手を合わせる。幼なじみとの静かな再会。
2人だけの時間。後藤さんは、少しほほえんだように見えた。
典子さんの夫・寛太郎さん
「近くにね、夕香里ちゃん(後藤さん)たちみたいな、同級生もいっぱいいたし、典子は幸せだったかもしれない…」
後藤さんは、じっと遺影を見つめ続けた。
後藤さん
「(この家に)来られなかったのは、(亡くなったことを)受け入れるのが嫌だったから、来られなかったんだと思う」
「(のりちゃんが亡くなったのを)信じたくないけど、やっぱり受け入れないとダメだね」
そして、後藤さんの「私もこれから来られる、ここに」という言葉に、典子さんの夫の寛太郎さんも「来て」と返す。
心の整理は、まだまだだけど、“のりちゃん”の事はずっと忘れない。また、夢で会える事を信じて――
山田町が“15年目のメッセージ”を広く募集しようとなったのは、町に関わる“ある出来事”が関係していた。それは、2025年10月に報じられたニュースにあった。
2023年、山田町からおよそ100キロ離れた宮城県の海岸で見つかった“小さな骨”が、山田町の山根捺星(なつせ)さんのものと判明。地震から14年7か月ぶりの帰宅だった、というものだ。
このニュースは、2025年10月16日のnews every.でも報じている。
震災当時6歳だった女の子が、ようやく家族の元へ帰れた事が、メッセージを募集するきっかけとなっていた。
捺星さんの5歳上の兄、山根大弥(だいや)さんが話を聞かせてくれた。現在、山田町の役場に勤務している。
生クリームのケーキが大好きで、小学校入学を控えていた、なっちゃん。14年7か月ぶりの帰宅は「おかえり…」の言葉で迎えた。
山根大弥さんは涙を拭いながら話す。
「見つかってよかったって気持ちもありますし、(震災前の)元気な姿しか見ていないので、あんな妹がこう、こんな小っちゃな…。顎の骨の一部だけになって帰ってきたっていうのは、やっぱり、悲しかったっていう記憶もありますね」
大弥さんが捺星さんのいないことに気づいたのは、震災翌日だった。両親は何も答えてはくれなかった。
大弥さんは当時を振り返る。
「妹としょっちゅうケンカしました。最後もケンカしたんですよ。私も(当時)小学生だったので、小学校に行く前に、急にイスを投げられて、腹を立ててしまって、ちょっと怒って泣かせてしまったんですよね。っていうのが私が妹に最後に会った時ですね」
3月11日が近づくと気持ちが沈んでいく。その繰り返しだった。大弥さんは、「町の復興に携わりたい」と町役場に就職した。
お兄ちゃんから、5つ違いの妹へ“15年目のメッセージ”。
『捺星へ
まずはじめに「おかえり」。
気づけば、兄ちゃんは、小学生から社会人になりました。今は山田町役場の職員として働いています。
兄ちゃんはこれからも、捺星の分まで精いっぱい生きて行こうと思います。
そして、また会えた時に話せるように、捺星に聞いてほしいこと、伝えたいことをたくさん用意しておきます。
また、会いましょう 兄ちゃんより』
サヨナラを言えなかった「遠い彼方のあなたへ」。メッセージには、大切な人を思い、過ごした15年がつづられている。
(2026年3月11日放送「news every.」より)