「空襲で生産設備が壊滅」「徴兵で労働力不足」もはや“ドン底”と言っても過言ではない…1945年の日本人が直面した『永久的奴隷化の恐れ』

1945年8月、日本は敗戦を迎えた。空襲で都市と生産設備は壊滅し、労働力は徴兵で不足。さらに植民地を失い、賠償の重圧がのしかかる。日本人の多くが思い描いたのは、「永久的奴隷化」という最悪の未来だった。
終戦直後の混乱のなか、日本経済はいったい何を考え、どのように動いたのか。防衛研究所主任研究官・小野圭司氏の著書『 太平洋戦争と銀行――なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか 』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/ 続きを読む )
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日本が負けた日
昭和20(1945)年8月15日の正午、ラジオからの時報が終わると放送員(敵性語排斥によるアナウンサーの言い換え)が聴取者に起立を求めた。下村宏情報局総裁が、「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣(の)らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」と説明する。
「君が代」に続いて、詔書を読み上げる玉音が拡声器から流れる。水を打ったような4分半だった。
その日の午後、首相の鈴木貫太郎は内閣総辞職を決める。
通貨・金融体制に関わる者たちも、それぞれの場で8月15日の正午を迎え、放送を拝聴した。しかし戦争が終わっても、彼らには新たな使命が待っていた。むしろ玉音放送は、「新たな使命」が始まる号砲だった。
土壇場の債務清算
米英中3ヵ国によるポツダム宣言発表の4日後となる昭和20(1945)年7月30日、大東亜省から金の時価売却で債務を清算する考えが示され、この方針は8月10日に閣議決定を得た。
外資金庫は特殊銀行(横浜正金銀行、朝鮮銀行)と、そしてこれら特殊銀行は中国親日政権の中央銀行(中国聯合準備銀行と中央儲備銀行)との間で、相互に帳簿の上で相手に貸し付けを行い、相手側はそれを預金として受け入れていた(預け合い勘定:図4-1)。
この取引を清算するためには、受け入れている相手の預金と相手に対する貸し付けを相殺すればよい。
しかし中国聯合準備銀行(聯銀)と中央儲備銀行(儲備銀)の特殊銀行に対する貸し付けが残っている。一方で聯銀・儲備銀に特殊銀行が預けている預金は、現地通貨(聯銀券・儲備券)の形で「戦費として」引き出して現地軍に渡された。
この関係を清算するためには、特殊銀行経由で聯銀と儲備銀に現地通貨を返済しないといけない。手っ取り早いのは、政府が保有する金を時価売却することだ。
政府保有の金を聯銀・儲備銀に売却することに決まり、手続きは正金銀行が担当することになった。正金銀行の上海支店と天津支店に保管されていた、政府名義の金塊約17トンがこれに使われた。聯銀には8月18日に3トン、儲備銀には8月14日から9月3日にかけて14トンが売却され預け合い勘定は清算された。
この清算を急いだのは、各銀行が連合国軍側に接収されると金銀の売却が自由にできなくなるためだ。実際に昭和20年9月13日に儲備銀総行(本店)、10月17日には聯銀総行が蒋介石国民政府に接収され、その後は各分行(大型支店)・支行(支店)に接収は広がった。
金価格は1年で「45倍」
これに加えて、金の市場価格が急騰していたことも金売却を急がせた。表4-1に見る通り、中国での金の市場価格は終戦前の約1年で45倍以上に膨れ上がっていた。
預け合い勘定清算の責任者である大蔵省外資局長の久保文蔵にとって、これは「千載一遇の好機」だった。
実際に、終戦の翌月には金の市場価格は5月に比べて約20分の1に急落した。もちろん、終戦直後の日本による金塊売却が市場価格の低下を促したに違いない。結果的に久保は、金の価格高騰を捉えて売り抜けることに成功した。
外資金庫は日本の戦費として5228億円を支払ったが、この殆どが特殊銀行2行を経由して、聯銀と儲備銀から借りた形となっていた。これに対して、8~9月にかけて行われた金売却の代金は4978億円だった。外資金庫を通じて借りていた日本の戦費の、実に95%が金の売却で瞬時に清算された。その他の資金も含めると、最終的に外資金庫の借り入れ返済に充当された金額は5026億円に上った。
昭和20年の値は無いが、昭和19年の日本の国民総生産(GNP)が745億円である。この7倍に迫る金額が戦費として占領地の親日政権中央銀行から借り入れられ、そして終戦に際して即座に返済された。
17トンの金塊がどれ位のものかというと、終戦時(昭和20年8月25日現在)の日本銀行が保有していた金地金は105トンだった。また当時のドイツは日本以上に金に不足しており、1944年末のドイツ帝国銀行(中央銀行)の金保有残高は30トンであった。このためドイツは戦争中、日本に対する軍事技術供与の対価として金の現送を要求し、昭和18年に4トン、19年には2トンの金塊が潜水艦でドイツに運ばれた。ただし19年の2トンは輸送を担当した「伊五二」潜水艦が大西洋で撃沈されて海没した。
参考までに1945年末の米国の金保有高は1万7831トン、英国が2418トン、フランスが1886トン、イタリアが77トン、ドイツに至っては6トンに過ぎなかった。
戦争中、日本は採算を度外視して産金に努め、昭和15~20年の間に189トンを産出した(表2-4)。
もっとも昭和18年以降は、労働力不足から産出量は大きく低下した。
永久的奴隷化の恐れ
古来より、戦争における敗者の末路は悲惨であった。ポエニ戦争(紀元前264~同146年)でローマ帝国と地中海の覇権を争った海洋商業都市カルタゴは、敗北後には物は掠奪され人々は奴隷にされた。
「神殿を包んで燃えあがる火の中に身を投げ、奴隷よりも死を選んだカルタゴ人も少なくなかった」「陥落後のカルタゴは、城壁も神殿も家も市場の建物も、ことごとくが破壊された」(塩野七生『ハンニバル戦記 ローマ人の物語Ⅱ』)。
1453年にオスマン帝国を率いるメフメト二世に対して徹底抗戦の後に陥落したコンスタンチノープル(現:イスタンブール)は、三日三晩にわたってこれもオスマン兵士たちによる暴行と掠奪のほしいままとなった。
20世紀に入ってからも第一次大戦では、敗れたドイツは天文学的な金額の賠償金を課せられ戦後復興どころではなかった。この時の余りにも過酷な賠償要求を、英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズは「クレマンソー氏(引用者註:フランス首相)のカルタゴの平和」と表現している(ケインズ『平和の経済的帰結』)。
日本の歴史においても、源平の合戦、戦国時代、そしてつい80年ほど前の戊辰戦争でも、敗者の扱いは罪人同様であった。
日本も同じ目に遭うのであろうか。
ようやく戦争が終わったという安堵感も、そう長くは続かない。戦いに敗れた日本は、どのような扱いを受けることになるのか。思い浮かぶのは戊辰戦争時の江戸城無血開城ではなく、大坂夏の陣での大坂落城後の狼藉と掠奪でしかない。終戦、そして敗戦という現実に直面した人々の胸の内は、安堵から間もなく深い懸念へと変わっていった。
日銀の調査部は玉音放送から6日後の8月21日に、「ポツダム宣言を前提とせる日本経済の将来構図」という調査報告をまとめている。
ポツダム宣言には軍国主義の永久的除去、日本の領土は北海道・本州・四国・九州と諸小島に限定、賠償負担が可能な水準の経済力維持、これら条件が達成されるまで連合国軍が保障占領を行う、などが記されている。
ただでさえ空襲で生産設備が大きく傷ついたうえに、労働力は多くが徴兵に取られて減少したままだ。さらに植民地・外地の割譲で領土は4割以上減少する。軍需産業の民生産業への転換には時間を要するだろうし、そもそも民生品の需要も終戦の混乱で見通せない。
「日本民族の永久的奴隷化」への危惧
この満身創痍の日本経済に、どれほどの賠償が果たされるのか。そして弱り切った日本企業は顧みられることもなく、日本は欧米資本の草刈り場になってしまうのではないか。神武以来、これほど悲観的にならざるを得ない状況はなかった。
日銀の報告書では、「現在のドン底生活を永続せしめ、将来苟も生ずる余裕は挙げて之を賠償に振向けしむるが如きことあらば、それは日本民族の永久的奴隷化」であると述べている(日本銀行調査局編『日本金融史資料 昭和続編 第7巻』)。この報告書を取りまとめた担当者の心境は察するに余りある。
程度の差はあれ、多くの日本人が「日本民族の永久的奴隷化」への危惧を抱いていた。
〈 「避難民に銃を向けようとする軍人の姿も…」日本人が忘れた「満州難民」の命がけの逃避行【早く逃げないとソ連軍が…】 〉へ続く
(小野 圭司/Webオリジナル(外部転載))